HIDEのPhoto BLOG

北国での日々の生活や個人旅行を写真でお知らせします。


In 11 2013

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イラン、イスラム、紀行 (3)

11月30日、曇り時々雪、午前8時現在外気温-09度。積雪25cm。

2013.10.28日。イラン滞在3日目。この日は1日中エスハハーン滞在。

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スィ、オ、セー橋 (Si-o-se Pol )

長さ300m、幅14mの橋。アッパースⅠ世の計画的な街造りの際、エスハハーンを南北に貫くチャハール、バーグ通りを繋ぐ橋として1602年に作られた物。

この時期川には水が無かった。雨期に川に水が戻ってくると、1階部はダムになり、人々は2階を通行する。
ペルシャ語で、スィー、オ、セーとは33を意味し、Polは橋の意。橋上部のアーチが33有ることから来ている。

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ヴァーンク教会 (Kelisa-ye Vank)

アルメニア教会。ジョルファー地区にある。1655-64年に建てられた教会。

大聖堂にはマスジェドを思わせるドームがあるがそのてっぺんに小さな十字架が立っていたので、キリスト教会だとわかった。内部は荘厳な雰囲気で、壁には『最後の審判』等の旧約聖書の場面や聖人の画が書かれている。
此処にはアルメニア博物館も併設されている。

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入り口に十字架。

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内部の壁画はすばらしい・

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マスデェデ、ジャーメ (Masjed-e Jame)

金曜の寺院。イランの寺院建築の集大成と言われて居る。
創建は8世紀まで遡るがエスハハーンで最も古いマスジェド。一度焼失して12から14世紀に再建された。

マスジェドとは、イスラム文化センター HPより。

「マスジド」とは、「サジュダする場所」という意味です。「サジュダ」とは、礼拝をする人が床に額をつけて祈ることを意味しますから、「額ずく場所」という意味になります。

 モスクを「額ずく場所」と呼ぶのは、「イスラーム」という言葉が「絶対帰依」を意味することと深く結びついています。

 「イスラーム」のもともとの意味は「絶対帰依すること」です。「帰依」とは、神を信じて、教えに従うことを意味します。そこで、その帰依の心を一番よく表すのが「額ずき神に祈る姿」として、礼拝堂を「額ずく場所」=「マスジド」と呼ぶようになりました。


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マスデェデ、エマーム (Masjed-e Emam)

イスラーム革命以前は「マスジェデ、シャー(王の寺院)」と呼ばれていた。アッパースⅠ世の命を受けて1612年に着工、1638年に完成。

広場に面した正面のエイヴァーンに圧倒される。天井の鍾乳石飾りは見事。中央礼拝堂のドームは二重構造である。

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チェヘル、ソトゥーン庭園博物館。

1647年にアッパースⅡ世によって建てられた宮殿。チェヘル、ソトゥーンとは「四十の柱」と言う意味だが、柱は二十本だ、正面の池に柱の像が映り40本に見えていることから「40本の柱」と言われるようになった。

宮殿内部は博物館になっている。サファヴィー朝の栄華を語る絵画は見事。

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玉座の間の壁一面に書かれた6枚の歴史画はすばらしい。その1枚。

エマーム広場(旧、王の広場)/ Meydan-e Emam 

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ここエマーム広場は『世界の半分』と言われて居る。エスハハーンのなかでも最も美しい場所だ。

首都になる以前、ナグシェ、ジャハーンと呼ばれる広場があったため、今でもそう呼ばれる事がある。広場は正確な長方形で縦510m、横163m。美しい噴水や庭の周りには観光用の馬車が走っている。(ちなみにお上りさんらしく私もこの馬車に乗って楽しんだ)。周囲を取り囲むアーケードには土産物屋や絨毯屋、チャイハーネなどが並ぶ。夜にはエマームのモスクを中心に広場全体がライトアップされる。

私にとって、今度のイラン行きの第一の目的は、このエマーム広場に自分の足で立つことであった。ちなみに第二の目標はペルセポリスを訪れる事だった。

エマーム広場の画像は本やネットで見ていたが、ここに来て自分の足で立ってみると、来るまでの思いが、勘違いであったことが判った。写真でみて思っていたのは此処が精神的、イスムラの精神に出会う事が出来ると場所と思って居たのである。たとえば、日本で言えば、伊勢神社の境内の玉砂利の道を歩くときに感ずる、精神的な感動を求めていたのだが、ここに来てみると現世的、世俗的、レジャーセンター的、ショッピングモール的な所である事が判った。

私が勝手に誤解していたのだが、少し残念だった。



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アリー、カーブ宮殿のテラスにたたずむ。

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アリーカーブ宮殿の6階部分にあった、天井。

エマーム広場の西側にある宮殿で、大きなテラスが目印である。正面が2階建てで、後ろが7階建てである。テラス部分は現在修復工事中であった。後ろの建物の6階の音楽室の天井は楽器のかたちに刳り抜かれている。

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この広場の周りの道を観光用の馬車が走っている。

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午後6時頃、夕闇が訪れてきた。広場のライトが点灯されだし、幻想的な広場に変身し出した。

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マスジェデ、シェイフ、ロトフ、オッラー (Msjed-e Sheykh Lotf-ol-lan)の屋根が輝いて居る。

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エマーム広場の東側。

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Category: イラン   Tags: ---

イラン、イスラム、紀行 (2)

11月29日、曇り後晴れ。12時現在外気温0.0度、予報では今日真冬日(1日24時間全部が-の温度日)となっていたが昼に近くになって晴れてきて温度も上がってきたようだ、積雪は11cm。

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聖職者の家族。聖職者のターバンには黒い物と、白い物がある。色による上下は無いそうだが、白いターバンは十二イマームの血筋を引く聖職者であるそうだ。

2013.10.27. イラン滞在2日目。テヘランからエスファハーンに移動日だ、途中ゴム(Ghom)とカシャーン(Kashan)に立ち寄る。

ゴム、(Ghom

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ゴムのハズラテ、マアスーメの聖域。
ゴムはテヘランの南135Kmに有る都市で、イラン国内のシーア派にとっては、マシュハドに次ぐ第2の巡礼の地である。
此処にはエマーム、レザーの妹で9世紀に没した聖マアスースの墓が有り、この霊廟を取り囲む様にして多くのモスクや神学校が並んでいる。

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我々のツアーグループの女性達もこの廟に入る為にはチャドルの着用を求められた、このようなチャドルが用意されていて、着用してから広場の中に入ることが出来るのだ。

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入り口の門の装飾が美しい。

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黄金のたまねぎ型ドームを持つ本廟はファトフ、アリー、シャーに寄って建てられた。

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イランの人々は非常に友好的だった、若い女学生のグループが我々のグループに近づいて来て、たどたどしい英語で話しかけてくる。写真を撮ってほしいと言ってきた。ビックリした。以前行ったパキスタンやイエメンなどのイスラムの国で女性の写真など撮ると大問題になったのに。

カシャーン(Kashan

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フィーン庭園 (Bagh-Fin)
カシャーン郊外にある、アッパースⅠ世により作られた庭園。ここは2011年世界遺産に登録されている。
門から中に入ると正面に池と離宮があり、糸杉の並木が両側に続いている。周りを小川が巡る典型的なペルシャ庭園である。

エスハハーン (Esfahan イスハハーン (Isfahan)と表記する物もあるが、ここではエスハハーンと統一して表記する。

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夜のハージュ橋。

イランの車渋滞はすごい、朝夕の通勤時間の幹線道路は車で身動きが出来ない。エスハハーン到着時間が遅れてしまった。
アッパースⅡ世時代、1666に完成した、長さ133m.幅12mの橋。この時期川には水が流れていない。

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エスハハーンの夕暮れ。

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28
Category: イラン   Tags: ---

イラン、イスラム、紀行 (1)

11月28日、今朝起きると昨夜から降り続いていた雪が20cm近く積もっていた。予報では今日も明日も雪マークが続いている。午前10時現在、外気温+0.0度、積雪16cm。

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2013.10.25日から11.04日までのツアーへの一人参加で、イランに行って来ました。

参加者は16人、内女性11人、男性5人、ここでも女性優位でした。全行程添乗員同行、現地ツアーガイド同行。ガイドは以前日本に5年間住んでいたことのあるイランの男性でした。日本語はほとんど日本人並。

イラン地図11

イラン、テヘラン (IRAN Tehran

イラン、イスラム共和国の首都、テヘランは標高1200mにある人口680万の大都会だ。年間の温度差は激しく、夏は40度を超えることも有り、冬は-10度にもなる。年間降水量は225mm。私たちが宿泊した最終日には珍しく雨模様となった。

1789年ガーシャール朝がここを首都とした時からイランの中心として栄えてきた街である。

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イランの首都テヘランの、エマーム、ホメイニ国際空港(Forudgah-e Beyn-ol-melale-ye Emam Khomeini)の出口。

旅行行程は、成田からカタールのドーハ経由でイランの首都テヘランへ。以後、バス移動で、エスファハン、ヤズド、シラーズ、アフワズ、ここからテヘランに飛行機で戻り、またドーハ経由成田着でした。

アザティタワー1

テヘランのランドマークタワー、アーザーディー、タワー。
1971年ペルシア建国2500年を記念して建てられた、高さ45mの逆Y字型塔。塔の地下は博物館になっているが、時間が無かったので外から見ただけだった。

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サアド、アーバート゜(旧レザー、シャー夏の宮殿)の庭。

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テヘラン北方にあるかってのシャーの宮殿跡。今は博物館の集合体となっている。グリーンパレス、宮殿博物館、フアィアート博物館、軍事博物館などがある。

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宮殿博物館内の調度品、特に絨毯はすばらしい物であった。

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泊まったホテルの食堂。

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イランの食事はナンが中心、バリエーションが少なくいつも同じ感じの食事だった。

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Category: モロッコ(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、モロッコ、アイトベンハドゥー、ワルザザート編

11月25日。朝、今年初めての霜が降りた。午前中は曇り、風が強くなってきた、13時現在外気温+10.6度。

モロッコ、アイトベンハドゥー (MOROCCO Ait Benhaddou

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2012.11.29 マラケシュのYHに滞在中、アイトベンハドゥーへ行くオプショナルツアーの募集があったのでAさんと参加することにした。

アイトベンハドゥとは (Ait Benhaddou )

アトラス山脈を越えたモロッコのワルザザート、カスバ街道沿いのドラア川岸にある、世界でも屈指のカスバ(城塞)。要塞のような日干しレンガの城壁が張りめぐらされている。映画の『アラビアのロレンス』や『ナイルの宝石』は、ここで撮影された。もともとサハラとマラケシュを結ぶカラバンの中継地だったが、世界遺産にも登録されている。

マラケシュを朝出て、夕方帰る日帰りのツアーであった。参加者5人。途中ワルザザードにも寄ってくるようだった。

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マラケシュのメディナを出たマイクロバスは農村地帯を西へ、2時間程度走り、山岳地帯に入る、アトラス山脈に分け入った。高度は相当高く山頂は雪景色も、峠で一服、寒ぶー。

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たぶん峠は2.000mは越えていただろう。峠を過ぎて高度を下げると乾燥地帯が現れてくる。途中ワルザザートの市街を通り過ぎた。ワルザザートはサハラ砂漠ほの入り口だ。

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道ばたにはらくだが。

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川の手前には住宅地が有り、橋を渡って古い住居が固まっている村に入っていく。

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この地は映画のロケ地となったことでも有名。「アラビアのロレンス」その他の映画でも此処で撮影されている。


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この遺跡を見て歩いて居るとき、日本からのツアーのグループが何組かやって来た。こんな辺境の地までやって来るツアーがあることにビックリした。

怪しげな爺さんの2人組、日本語で話しかけても誰も返事もしない。まあ、こんな辺地にいる年寄り2人。怪しがられても致し方ないか。

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ワルザザート (Ouarzazate

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ワルザザードとは。

ワルザザート(Ouarzazate、アラビア語表記:??????)は、モロッコの都市。人口56,616人(2004年)。モロッコ中部、アトラス山脈の南側に位置し、アトラス山脈から流れてきたドラア川が平原に出る地点にある。標高1,151m。気候は乾燥しており、雨はほぼ降らないが、ドラア川の水によってオアシスとなっている。

マラケシュからアトラス山脈を越えてサハラに抜ける幹線道路上に位置しており、交通の要衝である。空港もあり、モロッコのサハラ砂漠観光の入口となっている。ここからダデス川沿いに東のエルラシディアへと抜ける道は「カスバ街道」と呼ばれ、多くの観光客が訪れる。

ワルザザートは交通の便が比較的よく、砂漠の雄大な光景が広がっているため、映画のロケ地としてよく使われる街である。アラビアのロレンス、スター・ウォーズ、007 リビング・デイライツ、ハムナプトラ/失われた砂漠の都、グラディエーター、クンドゥンなどの映画が、この街でロケが行われた。

ワルザザートはかつてはキャラバンが立ち寄るだけの小さな村であったが、1920年代にフランス軍の基地が作られてから発展した。現在でもモロッコ軍が駐屯している。



街の向に湖が見えている。ダム湖の様だ。

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アイト。ベン、ハドーに行く時にもこの街を経由していったが、帰りにはここに車を止めて昼食時間となった。ここは街の中を幹線が走っていて。その幹線の側ので休憩をしたので、街中は見ていない。

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ワルザザードでちょっと遅めの昼食を採った。

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ここでもタジン鍋、

2012.11.29、ワルザザートからマラケシュに帰り、翌30日、マラケシュからカサブランカに移動。30日カサブランカ宿泊。翌12.01午前中列車で1時間のカサブランカ空港駅まで移動。日本への帰途についた。カサブランカ-ドバイ-成田、成田に1泊して新千歳に、自宅へは12.03夜に帰り着いた。

お知らせ

今回の『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記はこのモロッコ編で終わることとする。一部フインランド編からポーランド、ワルシャワ編までが抜けている。これは写真のメディアがどこかに行ったことが原因であるが、見つかり次第、追加で写真の公表をしたいと思っている。

2013.11.27からは先日ツアー参加で行ったイラン、イスラム旅行記をUPする予定である。

また、一連の旅行記が終わり次第、バックパッカーの旅の『旅の技術編』として、列車の切符の購入方法、ユースホステルの予約の仕方、ビザの取得方法、世界の列車時刻表の検索の仕方、等々知り得た知識を優しく解説することもしてみたいと思っています。

海外旅行でも、旅行会社に頼って、5ツ星ホテルに泊まり、お土産を沢山買って、うまい物を食べて、飛行機で移動するような旅には余り参考になりませんが、出来るだけ安価で、自力で、気楽に旅をしたいと思う人も、少しは居ると思います。

やってみれば驚くほどお金を掛けずに旅をすることが可能だと言うことが判りました。世界中の若者達はお金を掛けず自由に世界中を歩き回っています。また、ヨーロッパの年寄りも自由に、ゆったりと旅をしています。

時間と、健康と、気力さえ有れば、年金だけで生活している、私の様な貧乏人も世界中を自由に放浪することが可能なのです。

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Category: モロッコ(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、モロッコ、マラケシュ編

11月24日。久しぶりに朝から晴れ。12:00現在、外気温+7.9度。予報では明日の昼頃まで晴れマーク。

モロッコ、マラケシュ (MOROCCO Marrakech

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2012.11.27.12:05カサブランカからの列車はマラケシュに到着した。

Wikipediaより。

マラケシュ (مراكش marrākish)は、モロッコ中央部、ラバトの南西約280km、アトラス山脈山麓の丘陵地帯、テンシフト川の南岸に位置する都市で、「南方産の真珠」と呼ばれてきた。

マラケシュは、ベルベル語で「神の国」 (murt 'n akush)を意味する。北緯32度、西経8度、標高450mに位置する。気候はステップ気候に属する。人口は66万人であり、カサブランカとラバトにつぐモロッコ第3の都市でもある。(日本版ウィキペディアのフェズの項には、フェズの「2004年の人口は、94万6815人」とある。)

アトラス山脈のうち最も険しい大アトラス山脈の北に位置する。南方45kmには北アフリカ最高峰のトゥブカル山 (4165m) がそびえる。町の東側にはイシル川が流れ、大西洋に注ぐテンシフト川につながる。郊外にはオアシスが点在する。

マラケシュは東西2km、南北3kmの城壁に囲まれた旧市街(メディナ)と、旧市街の西に広がる新市街からなる。新市街の西端にマラケシュ駅が位置する。旧市街は北アフリカでも最大の規模であり、王宮のほか、バイア宮殿、エルバディ宮殿、サアド朝の墳墓群、ベルアベ陵、アグダル庭園などを含む。マラケシュ駅はターミナル駅であり、北に向かってカサブランカ、東へ折れてラバト、フェズへ延びる。町の北10kmの位置に国際空港が広がる。

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マラケシュ駅のコンコース。この駅は新しく、大きな駅だった。大変美しい。カサブランカと違って、この街はコ゜ミも少なく、居心地が良かった。

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駅出口のガラスドア、アラビックの装飾が美しい。

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駅の外から入り口を見る。

昼過ぎに到着したので昼食でもと思った。駅の出口を出ると左手にレストランが有り、オープンカフェになっている。ここで食事をした。

駅売店で買った地図を見ると予約を入れてあるユースはこの街のメデナ(城壁に囲まれた旧市街)のド真ん中に有る様だ。道が入り組んだ旧市街、それも駅からは相当離れているようだ、Aさんと相談してタクシーで移動することにした。

タクシーはメデナの入り口までしか行かれない。城門の中の道は細く車は入られないのだ。城門を入り地図を見ながら探していると、子供が寄ってきて、どこに行くのかと聞いてきた。ユースの名前を書いた紙を見せると、付いておいでと迷路のような道を入っていく。小さなドアの前で此処だという。とても一人はこられない場所だった。案の定、手を出してマネーという。お金を握らせると、少ないと言う。無視してドア押して中に入った。



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マラケシュで泊まったYH。
Hostel Riad Marrakech Rouge.11月27.28.29日、3泊、Standard 4Bed Mixed Dorm.
27日 1泊 80MAD ¥720  28.29日 1泊 70MAD ¥630。

2日目、夜中から寒くて眠られなかった。毛布1枚。寝袋はカサブランカのホテルにデポジットして持ってきていなかった。ここはアフリカそれに相当南に下がって来たので温度は高い物と勝手に想像していた。朝夕の冷え込みがこんなにきつい物とは想像していなかった、失敗だった。

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YHの談話室、各国の若者達がいつも詰めかけていてフレンドリー、日本人の女性も1人泊まって居た、イングランドに住んでいて一人でモロッコ観光に来たとのことだった。

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YHの屋上からみたモロッコのメディナ

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朝のジャマエルフナ広場。

11世紀後半にマラケッシュが首都であった頃から街の中心となっていた広場。かつては公開処刑なども行われていた。現在も、大道芸人や飲食物、金属細工を扱い屋台などがところ狭しと軒を並べ、混然とした賑わいを見せる。 屋台の絞りたてオレンジジュースは名物のひとつで、日本のみかんジュースに近い甘さがあるが、屋台によっては衛生面に問題があり、腹を下すという話もたまにある。

古くからモロッコの観光名所の一つとなっているが、近年、治安が極端に悪化。観光客への安全を考慮し、広場に面したレストランなどから風景を眺める形式を採るツアーも増えつつある。

事実2011年4月にこの広場で爆弾事件があり死傷者が出ている、アルカイダに関係する事件だったようだが、気にせず歩き回った。午前中はこの様に人のでは少なかったが、2泊目の夕方この広場を通りかかったら、人でびっしり夜遅くまで賑わっていた。、

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この広場の有名人、水売りのオジサン。

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コブラ使いが居たのでこっそり遠くから写真を撮ったら見つかってしまった。写真代50€だという。とんでもない、泡を食って逃げ出した。蛇遣いはこぶらを放置して追いかけることも出来ないので、何とか逃げおうせた。

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メデナ内の店、このあたりを冷やかして歩いて居た。

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2012.11.30 マラケシュからカサブランカに帰る。カサブランカに1泊してここからカタールのドーハ経由で12月1日に帰国することにした。

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Category: モロッコ(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、モロッコ、カサブランカ編

11月23日、曇り時々小雨、15:00現在+5.5度。穏やかな初冬の土曜日。

モロッコ、カサブランカ (MOROCCO Casablanca

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カサブランカのCasa Voyageurs 駅

タンジールからの寝台列車は早朝04:30カサブランカに到着した。この列車はマラケシュまで行く、此処は終点では無い。でも安心、3時半頃車掌が起こしに来た。

まだ外は真っ暗、明るくなるまでこの駅で休憩することにした。隣の食堂が6時半頃から営業を始めたので朝食を採る。朝夕は結構冷え込む。待合室で待つ間も寒さが身にしみる。

待合室でちょろちょろしていた猫をジャンパーの中に入れて抱いていた。猫も暖かいのでのどをゴロゴロ鳴らしながらおとなしく抱かさっている。

モロッコの地図1

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ホテルまでの道、ゴミが散乱していて、汚い。

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泊まったホテルまでの小路、このように何処の小路でも工事中で猛烈に歩きづらい。

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カサブランカで泊ったホテル。

Hotel Central Casablanca 11月23.24.25.26 4泊 1泊200MAD ¥1.800 朝食付き。

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YHで泊まったのは前の写真の2階部分。ここの窓から下を見ると小さい公園のような通りが見えている。ここのベンチにいつも猫が2.3匹たむろしていた。暇になると下に降りてこのベンチに座って、猫を抱いていた。

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古い城壁が有った、大砲が海に向けて並べていた。

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カサブランカの街は新しいトラムの工事中だった、電停もまだビニールがかかっている。

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試運転のトラムが街中を走り回っている、当然お客は乗っていない。

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レストランで食べたモロッコサラダ、5.6皿持ってきた、この内食べたのはタコだけだった。

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カサブランカで食べたイワシ、ただ塩を振って焼いたもの、此処ではこれが一番うまかった。指だけで食べる。

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モロッコと言えばタジン鍋、名物にうまい物無し。

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果物は豊富だった。

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通りの奥の洗濯物と、パラポラアンテナとのコントラストが面白い。

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ハッサンⅡ世モスク。

モロッコ最大の都市カサブランカにある、同国最大のモスク。高さ200mのミナレットがそびえ立つ。前国王ハッサン2世の発案で、1986年から8年かけて建造された。内部には2万5000人、敷地には8万人が一度に礼拝できる。伝統的な建築工法を用い、モロッコ全土から3300人もの職人を集めて、すべて手作りで緻密な装飾を施した。身体を清める泉や浴場、神学校、図書館、博物館、カフェなどが併設され、そのすべてが税金と寄付金で建てられた。

このモスクのミナレットは世界で最も高いミナレットと言われて居る。

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12月近くになるというのに、サーフインをしている若者達が居る。

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大西洋の並が岩壁に打ち付けている。

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ハッサンⅡ世モスク内部の地下。
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イスラムの光と影。

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ハッサンⅡ世モスクの博物館が敷地内に有った。

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この国はイスラムの国、アルコールは禁止されている。レストランやオープンカフェでも大の大人の男達が日がなミントティを呑んで1日を過ごしている。

此処の街の旅行記をネットで読んでいると、マラケシュの街でお酒を売っていると書かれていた。街に出て通りを歩いていると1軒だけ酒を売っている店が有った。見ていると、ここには行ってお酒を買っている地元の人がいた。店員は酒瓶を新聞紙で包み、黒いビニールの袋に入れて手渡していた。お客はすぐにその袋をジャンパーの中に入れて、外から見えないようにして、急いで店を出ていった。やはり酒を買うのは人には見せられない様だ。

この写真のビールの名前はカサブランカ、ビールだった。

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11月27日、カサブランカからマラケシュに列車で移動した。3時間20分の旅だ、大西洋岸から内陸部に入っていくが車窓からは畑の緑が続いていた

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Category: モロッコ(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、モロッコ、タンジール編

11月22日、12時現在外気温+5.5度。朝の内ちょっと晴れ間が出ていたが、また雲が上空を覆ってきた、明日も1日曇りのようだ。

モロッコ、タンジール (MOROCCO Tangier)

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Wikipedia より

タンジェ(ベルベル語: Tanja, アラビア語: طنجة‎ ṭanǧah, フランス語: Tanger, スペイン語: Tánger タンヘル, ポルトガル語: Tânger タンジェル, 英語: Tangier)は、モロッコ北部にある都市。人口は、約67万人(2004年)。ジブラルタル海峡に面した港町で、スペインやジブラルタルなどから多くフェリーが行き来し、国際都市として栄えている。タンジールの表記も見られる。

2012.11.22.午前11頃船は港に入ってきた。入国手続きはもう船の中で終わっている。岩壁にはバスが停まっていて、ターミナルまでバスで移動となった。

どうもここはタンジールの市街から相当離れた港の様だった。リスボンで出会った日本の女性が以前タンジールに渡ったことが有り、其処は非常に危険な所で、船から下りるとスリが多かったり、荷物を勝手に運びチップを要求したりで、タンジールには長居はしないですぐ移動するように、と注意を受けていたのに、この港はさんかんとして、人も余りいない。

ターミナルのインフォメーションセンターでタンジール駅までの移動方法などを聞いている間に、この港から市街行きのバスが出てしまった。1時間に1本しか無いと言う、タクシーの運転手に駅までの運賃を聞くと40$だと言う。インフォメーションセンターで聞いたときも、市街まで40Kmもありタクシー1台は40$と聞いて居たので、Aさんと2人で乗ると一人20$となり。タクシーで市街の駅まで乗車した。

帰国後、この港を調べたらどうも市外近くの港とは違って東に50kmも離れたTange Magと言う新しい港に入港したようだ、ここから市中心部には鉄道線路が工事中で、まだ開通していない。市の中心部にも以前からの港があり、ここにアルヘンシラスからの船便も入港しているようだった。

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タンジールの鉄道駅。

ここに昼頃到着した。駅でカサブランカ行きの列車時刻表を見てみると、タンジール21:35発、カサブランカ翌朝04:50の列車がある。これに乗ればYH1泊分が空くので、この夜行寝台でカサプランカに移動することにした。

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ここタンジール、ビラ駅は新興地区に新しく出来た駅のようで、駅舎も周りの建物も近代的な物ばかり、それに大きなビルの工事もあちこちでおこなわれていた、西の方に以前の港が有り旧市街もそちらにある様だ。

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旧市街には市場もあり、散策も面白いと思ったが、みんなが危険、危険というので、夜の9時過ぎまでこの新興地区で時間を過ごすことにした。

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駅から200~300m歩くと海岸に出る。芝生の美しい公園もあり、芝生に寝そべって時間を過ごした。

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我々が到着した新港と違って旧港に真っ白なクルーズ船が止って居た。

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もうすぐ12月だというのに、太陽の光はさんさんと降り注ぎ、夏のようだ。アフリカ大陸にやって来たのだと言うことが実感出来る。

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Category: スペイン(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、再びスペイン、セビーリア、コルドバ、そしてアルヘンシラスへ編

セビーリア、(Sevilla

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セヒーリア駅のホーム。

2012.11.19ポルトガルのリスボンを夜行バスでスペインのセビーリア向けに出発し、20日の朝5時頃セビーリアに到着した。夜行バスはやはり疲れる。

バスセンターは鉄道駅から離れているようだったのでタクシーを捕まえて鉄道駅に向かった。駅の窓口は6時からの営業だったので、窓口が開いてすぐコルドバ行きの切符を買った。

キップ

切符を買ったのは6時50分過ぎ、発車は7時15分、時間が無い、すぐに列車に乗り込んだ・

上の切符はセビーリア、コルドバ間。ヨーロッパではやはり鉄道切符は高い、1時間弱でも¥3.000以上する。下はコルドバ、アルヘンシラス間の切符。

コルドバ (Cordoba

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コルドバの駅舎。

次のアルヘンシラス行きの列車まで2時間程度有ったが街には出ずに、駅舎内のレストランで少し早い昼食をとり、待合時間をつぶした。

天気も良く、スペインの南部高地を列車は走る、久しぶりに列車の旅を楽しんだ。約3時間の鉄道の旅だった。

地図3

アルヘンシラス(Algeciras

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アルヘンシラスの駅舎。

港の画像

アルヘンシラスに午後1時ころ45分ついた。アルヘンシラスの宿泊はAさんが先にアルヘンシラスに到着する予定で、宿泊するところを予約する予定であったが、連絡違いで宿泊箇所が判らない。仕方が無いので飛び込みでホテルに宿泊することにした。40$だったがハスタブがあったので、まあ、良いか、と言うことにした。

Aさんとは翌日連絡が付き、彼の宿泊しているYHに移動した。29$、アルヘンシラスには2泊した。

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アルヘンシラス海岸通り。

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街の中に小さな広場があった。

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ここはすっかり南国の雰囲気。

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広場にあったベンチはすばらしい陶器製。

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スペインではタラベラ焼きの陶器が有名だが、これらもタラベラ焼きかどうかは判らない。

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11月22日、朝早く夜明け前にYHをでて、フエリー乗り場に向かった。前日の21日に切符は買っておいたのですぐ乗船した。モロッコのタンジールまで約2時間半かかる。高速船も走っていて1時間程度で到着のようだ。
驚いたことは出港してすぐにもう対岸のアフリカ大陸が見えていたことだ。

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海から見たアルヘンシラスの街並、

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ジブラルタル海峡には多くの船が行き交っている

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Category: ポルトガル(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、ポルトガル、リスボン編

11月21日、午前9時半、小雨、外気温3.7度

ポルトガル リスボン(PORTUGAL Lisboa

2012.11.17.目的を達してロカ岬からリスボン市内に戻ってきた。泊まったYHはロシオ駅の2階にあった。YHのガラスのドアを開けて外に出ると、目の前にロシオ駅のホームがあり、電車が止まっている。こんな便利なYHは初めてだった、中も清潔で、サービスも良い。

Lisbon Destination Hostel 11月17.18.19 3泊、1泊.17と19は14.99€ ¥1.439 18日のみ13.9€. ¥1.343。

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YHを出て坂を下っていくとロシオ広場にでる。此処から通りの向こうに海が見えていた。次の日からこの海岸縁を散策していた。ところが海だと思って居たのは地図を見るとテージヨ川だったのだ。海の向こうに島があり橋がかかっていると思って居たのは、川の対岸に向けての橋だった。

目的を達して、気が抜けたのか、写真を撮っていたつもりが、カメラにSDカードが入って居なかったりで、ここの街の写真は少ない。

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ロシオ広場

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夕方になるとこのロシオ広場横の小路に出かけてワインを呑んでいた。同じYHに泊まった日本の青年と、シントラからのかえりで知り合った日本人の若い女性と3人でレストランに入り、久しぶりに日本語で旅の話に盛り上がった。

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ロシオ駅のコンコース

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リスボンのバスセンター、夜行バスでスペインのセビリアへ。

2012.11.20.モロッコに行くためにまたスペインに向け移動することにした。リスボンからスペイン南部のアルヘンシラスまでは列車では行けない。一旦スペインのセピリアに出て此処から移動するつもりでいた。ロシオ駅で聞いてみると、この駅は近郊専用の駅で、サンタ、アボローニア駅に行って聞くようにと言われ、仕方なく地下鉄で移動して聞いてみると、セビリア行きの列車は無いとのこと。バスセンターを紹介され、バスセンターにまた移動した。

結局リスボンから夜間バスでセビリアにでて、ここから鉄道でコルドバまで行き乗り換えてアルヘンシラスへというコースを採ることにした。

ここリスボンに滞在していたときに、以前ルーマニアまで同行していた、AさんからSkypeで連絡が入り、スペインに滞在中とのこと。私がモロッコまで足を伸ばすと話をすると、また同行したいと申し出が有り、アルヘンシラスで出会い、ジブラルタル海峡を一緒に渡ることにした。






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『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、ポルトガル。シントラ、リスボン、そしてロカ岬編。

11月20日、曇り、外気温+8.1度。外の雪はほとんど解け家の陰に少し残って居るのみ。

ポルトガル シントラ とロカ岬 (PORTUGAL Sintra Coba de Roca

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シントラの駅前。

2012.11.17日、午前5時頃スペインのマドリッドを前夜出た夜行バスはリスボンのセッテ、リオス(Terminal de Sete Rios)バスターミナルに到着した。

ここは、リスボンの北外れに位置しているが市内とは近郊電車、地下鉄で結ばれている、朝5時では電車も地下鉄も動いていない。ここの待合室で休んでいると1人の日本の青年が話しかけてきた。

彼は30代後半、もう4ケ月もバッカーの旅を続けて居るとのこと、南米から飛行機でスペインに飛び、私と同じバスでリスボンに入ったようだ。まだこの国の予定も決まっていず、ホテルの予約もまだ。リスボンの旅を一緒させてほしいとの申し出があり、承諾した(旅先での知らない人との同行は、特に注意をしなければならないが、もう旅も終わり日が近づいていて、気の緩みがあったようだ)。

地下鉄が動き出したら一旦街の中心部に移動して予約を入れてあるYHに行き荷物を保管して貰い、ロカ岬に行くこととする。

予約を入れてあるYHはロシオ鉄道駅の2階にある。非常に便利だ。青年も一緒に同じYHに泊まりたいという。
7時に地下鉄が動き出したので、市街の中心部まで移動した。地下鉄を上がってロシオ駅はすぐだった。このロシオ駅はシントラに行く鉄道の専用駅で、ロカ岬にはここからシントラまで鉄道で、そこでバスに乗り換えて1時間半くらいで行く事が出来る。

9時過ぎに電車でシントラに向かう。駅前からは30分おきにロカ岬行きのバスで出ていた。曇り空の中をバスは出発したが途中から風が強くなり雨が降り出した。30分後岬が近づいてきて、雨がやんだ、風は幾分残って居る。

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ロカ岬とは Wikipediaより

ロカ岬(Cabo da Roca)は、ポルトガル共和国リスボン都市圏にあるユーラシア大陸最西端の岬である。位置、北緯38度47分、西経9度30分。西には大西洋が広がり、その遥か先にはポルトガル領のアゾレス諸島がある。シントラやカスカイスから、バスが出ており、リスボンからの日帰り観光も可能である。

またここには、ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の一節「ここに地終わり海始まる(Onde a terra acaba e o mar começa)」を刻んだ石碑が立っている。また、有料だがユーラシア大陸最西端到達証明書がある。5ユーロと10ユーロのタイプの証明書があるが、どちらにしても証明書には名前・日付等が入り、裏面には主要国の言葉で書かれた上記の詩(日本語もある)が書かれたものを入手することが出来る。

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2012.07.23日北海道の自宅を出て、ひたすら陸路、海路移動にこだわって西へ西へと旅を続けて来た、117日目の2012.11.17日ついに目的地、ユーラシア大陸最西端の地、ここロカ岬に到達したのである。

この地にバスから降り立った頃、あの猛烈な雨と風がやんで、海上には虹さえも現れていた。私の長かった旅の成功を祝福してくれている様に感じた。

予定では11月下旬までにこの地に立てればと思って居たが、11月17日、まだ今月は2週間近くある。ジブラルタル海峡を渡ってモロッコまで足を伸ばすことにした。

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ポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩『ウズ・ルジアダス』第3詩20節の一節「ここに地終わり海始まる(Onde a terra acaba e o mar começa)」を刻んだ石碑。

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本当に此処から海が始まる景色だ、雲の切れ間から日の光が海に落ち照り返している。

一説によるとこの岬には冬の寒風が吹きすさぶ時に来るといっそう感激するそうだ。

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この岬に2時間程度留ってからバスでシントラの街に引き返し、シントラ近郊の丘の上にあるペーナ宮殿(Palacio de Pena)を見て回った、雲が上がってきて幻想的な景色となった。晴れていればこの宮殿のテラスからリスホン市街がみえるのだが、雲の中に隠れてしまっている。

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その後シントラの街に戻ってきてしばらくこの街を散策した。

この街はリスボンの西北にある古くて美しい街である。バイロンがこの街を「エデンの園」と言ったことは有名だ。

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『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、スベイン、マドリッド編

11月19日、曇り時々雨、原っぱの雪は解け、草地が出て来た、日中の温度は+6度だった。

スペイン、マドリッド (SPAIN Madrid)

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2012.11.13 午後5時過ぎにバスはマドリット゜に到着した。バスストップは駅裏にある。駅のキオスクに行って地図を買い地下鉄駅に向かった。ユースホステルはBilbao駅の側だ。

マドリッドで泊まったYH。
U Hostels 11月13.14.15日 3泊、Stadard 12Bed Mixed Dorm 1泊€14 ¥1.330

U Hostelsのホームページより

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この建物の5階に泊まった部屋が有った。

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この部屋は12Bed この写真のように清潔だった。

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台所も設備がそろっており、そこで夕食を作りここで食事をとる。

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泊まったYHの窓からマドリッドの街並を見る・

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マドリッドの地下鉄駅のホーム。

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この街も古い建物が多く、ヨーロッパの古都の様相が残っている。

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この街でも街中にゼネストのポスター。アテネでゼネストと警察機動隊との衝突現場にいたが。この国も経済的不況で国内が不安定となっている。

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町角のウインドウにもストライキのステッカーが。

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マヨール広場を歩いて居ると警察の車が警笛を鳴らしながら集まってきた。少し歩くと、小道に騎馬隊が集まって居る。

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向こうの広場にデモ隊が居る。ここのデモは勤務が終わってからの集会のようで、地下鉄から三三五五と人が出てくる。でも、統制がとれていない。危険な雰囲気はない、

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機動隊のパトカー、日本のホンダ製だった。

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パトカーが警告灯を回しながらね集まってきた。この夜の集会は平和裏に9時過ぎに終わりデモは解散した。

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『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、スベイン、バルセロナ編

11月18日。朝から晴れ。雪も大分解け、所々に黒い土が見えだしている。

スペイン、バルセロナ(SPAIN Barcelona)

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フランスとスペインの国境。ここの両国ともシンゲン条約加入国なのに、なぜか出入国管理官がバスに乗り込んできて、パスポートを集めていった。その後バスは走り出して30分くらいして止まり、パスポートを返してくれた。もちろん出入国のスタンプは押していない。

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2012.11.08 フランスのマルセイユからバスで午後5時にスペインのバルセロナに入った。

路線地図1

いつものバス移動は夜間バスが多かったが、今回は朝出発の昼間の移動だった。

バルセロナで泊まったユースホステル。
Backpackers BCN Casanova 2012.11/9.10.11.12 4泊、6Bed Mixed Dorm.
11月9.10日 1泊12€ ¥1.140  11月10.11日 1泊15.50€ ¥1.473

11月10日朝起きて食後1番にサグラダフアミリアを見に出かけて、地下鉄に乗って移動した。

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バルセロナ地下鉄のホーム。

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地下鉄2号線、Sagrada Familia駅で降り、地上に出ると目の前に巨大な聖堂がドカーンと聳え立っていた。

Wikipediaより。

サグラダ・ファミリア(日本語: 聖家族)は聖家族贖罪教会(カタルーニャ語: Temple Expiatori de la Sagrada Família)という正式名称を持つバルセロナにあるカトリックのバシリカである。日本語では聖家族教会と呼ばれることも多い。

サグラダ・ファミリアは、カタロニア・モダニズム建築の最も良く知られた作品例であり、カタロニアの建築家アントニ・ガウディの未完作品である。バルセロナ市のシンボルであるこの建物は、綿密に構成された象徴詩的なシンボロジーと共に、パラボリックな(放物線状の)構造のアーチや、鐘楼に据えられた自然主義と抽象主義の混在する彫刻などで、大胆な建築様式を誇っている。2004年の統計によれば、サグラダ・ファミリアはアルハンブラ宮殿やマドリッドのプラド美術館を抜いてスペインで最も観光客を集めたモニュメントとなり[1]、2008年には270万人を集めた[2]。生前のガウディが実現できたのは地下聖堂と生誕のファサードなどであるが、これらは2005年にユネスコの世界遺産に登録された。 贖罪教会なので、作業の財政は喜捨に頼っている。そのために、別々の箇所を同時に建設することはできなかったのだが、1990年代以降は訪問者の流れと作品の世評の高まりが財政状況を好転させた。

2010年11月7日に教皇ベネディクト16世が訪れ、ミサを執り行い、聖堂に聖水を注いで聖別。サグラダ・ファミリアはバシリカとなった。ミサには司教達を含む6500人が参列し、800人の聖歌隊が参加した[3]。

9代目設計責任者のジョルディ・ファウリは、ガウディの没後100年にあたる2026年に完成予定と発表している[4]。


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サグラダファミリアの側には小さな池が有り、このほとりにお土産屋やカフェが集まって居る、其処のオープンカフェでビールを注文して、ボケーとこの聖堂を眺めていた。中に入ってみようかと思って、塔の下にならんでいる人に聞いてみると、2時間待ちの列のようだった。中に入るのはあきらめた。

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サン、パウ病院、
サグラダファミリアの側から少し坂を上っていくとサン、バウ病院がある。

ドメネク、イ、ネンタネールにより1902年に着工、「芸術には人を癒やす力がある」とい信念年のもと、建物全体が花や天使をあしらったステンドグラス、タイル、モザイクで飾られている。完成は1930年。、

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このあたりにも例のゴミ箱がある。まあ、収集はされているようで、ナポリの様にゴミは散乱してはいないが、日本人の我々にとっては無粋に見え、良い印象は無かった。

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スペインのポスト。

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アグアス・デ・バルセロナ(バルセロナ水道会社)の本社ビルです。

この「アグアス・デ・バルセロナ」は、通称「アグバル」(AGBAR)と呼ばれてますので、この塔も「トーレ・アグバル」(アグバル・タワー)と呼ばれ始めています。

ジャン・ヌーベルらしくキラキラした外観に、ガウディリスペクトだという無秩序なタイルを組み合わせ、独特な趣きになっています。
2004年の完成直後には、「あまりに町並みに合わない」 「座薬みたい」など散々な評判だったこのアグバルですが、その後数年経っても評価はあまり上がっていないようです。

それほどまだバルセロナ市民に親しまれていない建物ですが、恐らくサグラダ・ファミリアも最初はそうだったでしょうから、評価されるのにはまだしばらくかかるかもしれません。

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カサ、ミラ(Casa Mila)

切り出した石を積み上げてあるため、別名ラ、ペドレラ(La Pedrera)と呼ばれて居いる。徹底的に直線を排除して、ゆがんだ曲線を主調とするこの世紀末的な建物は、20世紀に現れた新古典主義者の攻撃の的となった。

建物を朝日のあたる頃見てみると、壁面に埋め込まれた色とりどりのガラスモザイクが光を反射して美しい。

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グラシア通りを散策すると、道の両側にはガウディの建物が並んでいて、楽しい。

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地下鉄エスパーニャを出てみると、スペイン広場に出た。

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スペイン広場の向こうにモンジイックの丘に入っていく入り口の2本の塔が見えて来た。

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モンジェックの丘

モンジュイックの丘 Montanya de Montjuïc

 バルセロナの西南一帯を占める、標高173mの広大な岩山。中世には要塞が置かれていたが、1992年にはバルセロナ・オリンピックのメイン会場にもなった。おもな見どころとして、カタルーニャ美術館、スペイン村、ミロ美術館、モンジュイック城などがある。モンジュイック城の内部は軍事博物館として公開されている。

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この丘に上がる階段の下に歓迎のデスブレーがあった。日本語もある。

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丘の上にあるガルーニャ美術館前のテラスから見た、バルセロナ市街。

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遠くにはサグラダファミリアも見えている。

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バルセロナ、サンツ駅

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バルセロナで食べた、イカスミのパエリア。スペイン語で書かれたメニユーを見てもどんな料理か判らない、パエリアだと言うことだけ判ったので、適当に注文した。運ばれてきた料理を見てびっくり、でも美味しかった。食後はお歯黒状態、ぬれティッシュで歯を磨く。

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2012.11.13いよいよ最後の訪問国、ポルトガルのリスボン(バスセンターでバスの切符を買おうとしたら、ここスペインやポルトガルではリスボンをリスボアと言うことが判った)に移動することにした。

バルセロナでケチャッブ掛けスリにやられた

2012.11.11昼過ぎにバルセロナのカタルーニァ広場あたりを歩いて居た。道の車道との境界あたりに木々が生い茂っている。その木の下にさしかかったとき、突然木々の中から一斉に鳥が飛び立つ様な気配(音)がした。


その時突然被っていた帽子に何かが降りかかってきた。手で触ると緑色をした液体だ、『ウワー、鳥の糞だー』とビックリして、ポケットに入れておいたティッシュで帽子を拭いていると、後ろから2人の中年の男女が近づいてきて、背負っているリュックも汚れていますよと、声を掛けてきました。2人して汚れを拭いてれるのです。ズボンの此処にも汚れがと拭いてくれました。『グラーシォス、グラーシアス』とお礼を言って分かれました。

その後2時間程度街を歩いて5時過ぎに泊まって居たYHに戻りかけました。途中今夜の夕食にと途中のスーパーに寄って食材の買い物、レジで財布を出して代金を払おうとしたところ、財布の現金が無いのです。

この時やっと気がつきました。2時間も達っていました。財布は鎖でベルトに繋いであります。財布から現金だけ抜き取り、またズボのポケットに戻してありました。財布のカードはそのまま盗まれていません。さらに反対側のズボンのポケットに入れてあった、小銭入れのがま口は持って行かれました。

私はスリに会うことを想像して、財布には1万円以下しか入れてありません。カードで現金を引き出す場合でも最大100€です。この時は小銭入れも含めて70~80€の損害でした。あの2人組は、ここも汚れている、彼処もと言いながらペットポトルに入れた緑の液体を後ろから掛けていたのでしょう。

私が、グラーシアスと言うのを聞いて、心の中では、腹を抱えて笑っていたに違い有りません。でも、悔しさよりその手際のよさに関心してしまいました。

旅に出る前から、スペインの『ケチャップかけスリ』に付いては知っていました。でも実際に出会うとまんまんやられてしまったのです。

いつも『おれおれサギ』に会う人の話を聞いて、俺は絶対に欺されないと思って居ましたが、自信がなくなりました。もう、惚けだしているのかもしれません。

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Category: フランス(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、フランス。マルセイユ、ニース編

11月17日、天候晴れ、まだ外の世界は真っ白、着よう天気であれば少しは雪溶が進むか・

フランス、ニース(FRANCE Nice)

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ニース駅ホーム。

21012.11.6.午前11時過ぎ、列車はフランスのニース駅に入った。

この日9時過ぎにイタリアのミラノを出た、前日にEuropean Rail Timetableで移動する列車の時間を確認してミラノ駅に出かけた、フランスのマルセイユまでは普通列車では1本で繋がっている列車は無い。ミラノから国境の町ベンチミグリアまで、ベンチミグリアから国境を越えてフランスのニースまで、ニースからマルセイユまで、3本の列車を乗り継いでいく。

ミラノ駅でこの3本の列車の切符を買おうとしたらニースからマルセイユ間の切符はフランスの鉄道会社なのでニースに入ってから買うようにと指示された。

ミラノからマルセイユまでの列車の旅は、途中からコートダジュールを通過していく。途中モナコ、サンレモ、ニースなど有名な街を通過した。行く手右側には山が迫り、左手にはキラキラと秋の太陽の光を反射した地中海が続いて居る。只、途中にはトンネルが多く、サンレモなどは駅舎がトンネル内に有った。

この度の移動でのフランス滞在は、ただ鉄道の乗り継ぎの為だけだった。
11月に入り、目的地のロカ岬が射程距離に入ってきている、気持ちにいくらか焦りが出ていた。『目的地ロカ岬はもうすぐ其処だ!』との気持ちが強い。途中余り道草を食わず、先へ進もうとの思いが強い。

そんなわけで当初マルセイユは1.2日の宿泊ですぐに先に進む心つもりだった。しかしどうも体の底に疲労感がたまって居る。結果3泊もしてしまった。

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ベンチミグリアからニースまで乗った列車。

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ニースの駅前。

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駅前の街並。

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此処で乗り換え時間を1時間半取ったので、駅前のオープンカフエで遅い昼食を採った。

マルセイユ(Marseille)

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2012.11.6 午後9時過ぎにマルセイユ、シン、シャルルの駅に列車は到着した。すぐキオスクで地図を買う。駅出口を出て左側に行と、予約を入れたHostei.comには書いてあった。重い荷物を背負ってく暗い街に飛び出した。どうも判らない。ある一軒の店に電気が付いている、飛び込んで聞いてみた。店の中にテーブルが有り男達が4.5人お茶を飲んでいる。見るとミント、ティだ、話をしている言葉もトルコ語の様だ。

私の行くべきYHの場所を聞くが、判らないという。『まあ、中に入りお茶でも飲んでいけ』と店の中にさそわれた。どこから来たのかと聞くので日本からだというと、中の3人ばかりは、以前日本で暮らしていたという。やはりトルコ人だった。

こんな遅い時間に、このあたりを一人でうろついていると非常に危険なので、すぐ駅に戻りタクシーでYHに向えと。注意された。

駅前に戻りタクシーの運転手に行き先を言うと、車から出て来て、指さして、ほら、あの3軒先の建物だという。なーんだ、駅の出口が3箇所あり出口を間違えていたのだ。

後で判ったのだがここマルセイユはフランスの中でも最も犯罪発生率の高い都市だそうだ。

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駅出口階段の上から、街を見る。

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翌日もう一度駅に行ってみると、この階段の上から泊まったYHが下に見えていた。

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ユースホステルはロビーからドアを開けて中庭に降りるようになっている。ここの中庭でビールを飲み、タバコをすっていた。

Vertigo Centre 11月6.7.8日、3泊。4Bed Mixed Dorm Ensuite 1泊 €19.90 ¥1,890


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マルセイユは坂の街。駅から下にまっすぐ降りていくと、ヨットハーバーに行き着く。7日は1日中このヨットハーバー付近をぶらついていた。

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ブイヤベース

マルセイユと言えばブイヤベース、ヨットハーバーを取り囲んでオープンカフェが連なっている、観光客で何処も込んでいる。此処まで来たので張り込んでブイヤベースを本場のマルセイユで食べることにした。多分そうとう高いとは覚悟していたがブイヤベース単体では¥4.950。ビール3杯とサラダを追加したので¥9.300だった。1万円程度覚悟していたので、マアマアという所。

今まで1日500円程度の粗食に耐えてきたので、たまの散財もOKか。


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ヨットハーバーに下っていく大通り、カスピエール大通りの下り方向の左側には取れたての魚介類を売る店が並んでいた。たこやイカなども有る。ここの露天などにも多くの黒人が店を開いていた。ハーラールの看板も見られた。

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ムスリムの為の食料品店、ハラールだけを売っている店。看板にHallalの文字が

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マルセイユのサン・ヴァンサン・ド・ ポール教会

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マルセイユの凱旋門。1823年に建設が始まり1839に完成した物である。高さ横幅共に17m68である。

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マルセイユ、サン、シャルル駅構内。

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この国の電車も落書きだらけ。

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フランスを代表する高速鉄道、TGV-PSE。

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11月9日、ここフランスのマルセイユからスベインのバルセロナに移動する事にした。7日に移動方法を調べてみると鉄道では18,000円もするがバス移動であれば3.900円とのこと、早速バス会社に行って切符を買ってきておいた。朝9時過ぎに出て午後5過ぎに到着するとのこと、久しぶりの日中の移動となった。












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『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、イタリア、ミラノ編

11月16日、昼前は霧がかかって見とおしが悪い。昼から晴れ間も出て来た。外はまだ白一色。大分溶けては来たがまだ雪が一面に残っている。

イタリア、ミラノ (ITALY Milano)

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2012.11.3午後ミラノ、セントラル駅にイタリア鉄道(トレニタリアTrenitalia)が誇るエウロスター.アルタヴェチタ (AV-fast)がローマ、テルミニ駅から到着した。

予約を入れてあるYHは、ここで地下鉄の3番ラインに乗り換えAfforifn地下鉄駅までで行かなければならない。駅のキオスクで市内地図を買って地下鉄路線を頭にたたき込む。

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此処が泊まったユースホステルの入り口、塀に囲まれた広大な敷地の中の林に囲まれた中にあった。

Ostell Olinda 11月3.4.5日、3泊、Basic 4Bed Mixed Dorm 1泊21€ ¥1,995

部屋は広く4Bedとなっているが2段ベットが10ケも並んでいる。たぶんこの部屋には最大4人しか入れないと言うことだろう、同室者はイランから来たという陰鬱な青年のみ、ほとんど1日部屋に留まっている。台所は広く設備がそろっている。有料だったが洗濯機や、乾燥機も使える。まあ、街の中心部に出かけるには地下鉄で行かなければならずちょっと不便だったが、静かな環境で気に入った。


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YHの玄関を出ると、このような林が広がっている。下の写真もその林。ヨーロッパにも秋がやって来ていた。

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次の日から毎日地下鉄で街の中心部に出かけ、歩き回った。街は石畳の道が多く、ヨーロッパ中世の面影が色濃く残って居る。

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トラムの色も街並に溶け込んでいる。この色合いの良さはさすがイタリアと思った。

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ミラノを代表するドゥオーモ

Wikipediaより。

ミラノのドゥオーモ (イタリア語:Duomo di Milano、ドゥオーモ・ディ・ミラーノ) は、ロンバルディア州都ミラノの象徴である。都市の中心の同名のドゥオーモ広場に位置し、聖母マリアに献納されているドゥオーモである。 ミラノのドゥオーモは500万人のカトリック信者がいる世界最大の司教区であるミラノ大司教区を統括する首都大司教の司教座聖堂であり、その大司教は2011年からアンジェロ・スコラ枢機卿が務めている。

ドゥオーモの最初の石は1386年に大司教アントーニオ・ダ・サルッツォとミラノの領主 ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの要求により、古代からあったサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の場所に置かれた。 宗教改革による中断を経て最初の石が置かれてから約500年後の1813年に完成した。 19世紀を通じて、尖塔と全ての装飾が仕上げられた。

第二次世界大戦中の1943年にミラノは爆撃を受けたが、この建物は連合国側の判断で爆撃を逃れた。そして大戦が終わってすぐ、ドゥオーモは大部分を修復されると共に、木の扉を青銅製に取り替えられた。

ミラノのドゥオーモは世界最大のゴシック建築であり、5世紀もの歳月をかけて多くの芸術家によって完成された。階段またはエレベータによって聖堂の上に登ることができる。


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ドゥオーモ広場の左手にあるアルヴィットリオ、エマヌエーレⅡ世ガレリアーの入り口。

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ガレリアが交差する中心部に人々が群がっている。見ていると、中心部にある牛の浮彫りにかかとを付けて回っている。此処で一回転すると幸福になると言われて居るようだ、牛の局部がすり減っていた。

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11月4日、レオナルド、ダ、ビンチの絵画『最後の晩餐』を見ようとしてサンタ、マリア、デッレ、グラツィエ教会に出かけた。ドアが閉まっている。横の掲示板を見ると月曜日は休館日とのこと。この日が月曜日だったことを忘れていた。

残念ながら中に入ってこの絵画を見る事は出来なかった、裏手に小さな博物館が有り此処を見て回った。明日火曜日はフランスへの移動日、9時開館とのことであるが時間が無い。残念ながらあきらめた。

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このサンタ、マリア、デッレ、グラツィエ教会の左側にある、旧ドミニコ派修道院の食堂の壁にこの『最後の晩餐』が書かれている。

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サンタ、マリア、デッレ、グラツィエ教会横の小路。

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スフォルツェスコ城に入ってみた。

14世紀にミラノを支配していたヴィスコンティ家が建てた居城を、15世紀にスフォルツァ家が堅牢な城塞として改築。改造にはダビンチやブラマンティも携わった。門を入って行き城を通り過ぎると広大なセンピオーネ公園があった、紅葉が始まりかけた林と芝生のコントラストがすばらしかった。大都会の中に静かに時が流れている、すばらしい公園だ。

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黄色く色づきだした楓の葉を透して柔らかな秋の日の光が差し込んでいる。

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スフォルツェスコ城前の噴水。

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ミラノセントラル駅構内に泊まって居たイタリア鉄道の機関車

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エウロスター、シテイ。

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レオナルド、エクスプレス。
5日、この列車に乗ってコートダジューを通ってベンチミグリア(フランスとの国境駅)まで行った。

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フレッチャロサ(赤い矢)、ETR500




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『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、イタリア。ローマ編その2

Romaの続き

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サンタンジロ城

Wikipediaより。
サンタンジェロ城(サンタンジェロじょう、伊: Castel Sant'Angelo)は、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。日本語訳によっては、聖天使城、カステル・サンタンジェロとも呼ばれる。 正面にはサンタンジェロ橋(ponte Sant'Angelo)があり、わずかに離れた場所にあるバチカンのサン・ピエトロ大聖堂とは秘密の通路で繋がっているといわれている

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ローマの松。

タラントからナポリに列車で北上してくると、このイタリア独特の松が現れだした。ローマ市内の松もこの松が多い。

この松並木を見たとき、オットリーノ、レスピーギの交響詩『ローマの松』を思い出した。この交響詩の中でも特に『アッピア街道の松』が思いでもあるし、大好きだ。

1960年に開催されたローマオリンピック、この最終日にエチオピア代表のアベベが裸足でこのアッピア街道をひたひたと走ってローマ競技場に1番で凱旋してきた。

第二次世界大戦初期、イタリアはエチオピアに侵攻。
エチオピアはイタリアに屈辱的な支配下に置かれた。そのときから20年近く経って、古代ローマ軍団が凱旋してきたアッピア街道をエチオピアのアベベが裸足で凱旋してきたのだった。

当時まだ21歳だった私はこの実況放送を涙を流しながら聞いたことを未だに記憶している。この松並木を見てそのときのことを思い出した。

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コンタンチヌス帝の凱旋門。
ローマ最大の凱旋門で、地下鉄コロッセオ駅前のアォロ、ロマーノ側にそびえるアーち。215年にコンタンチヌス帝がマクセンティウス帝に勝利し、帝位を手に入れた事を記念して建てられた。高さ21m>

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カンピトリオ。

Wikipediaより。
カンピドリオ (Campidoglio) は、ローマの七丘の一つである。カピトリーノ (Capitolino) ともいい、古代ローマ時代にはラテン語でカピトリヌス (Capitolinus) と言われた。

この丘は、ローマの七丘でも最も高い丘で、ローマ神の最高神であったユピテルやユノーの神殿(ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿)があり、ローマの中心であり、現在もローマ市庁舎が位置する。


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ローマの松並木、向こうにコロッセオが見えている。

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ヴィットリオ。エマヌエーレⅡ世記念堂。

Wikipediaより
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂(Monumento Nazionale a Vittorio Emanuele II)は、イタリア・ローマのヴェネツィア広場に面しカンピドリオを背にして建つ、1870年のイタリア統一の立役者、初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の偉業を称えて建てられた記念堂。

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バルベリーニ広場にある、トリトーネ噴水。

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トレヴイの泉。。
後ろ向きにコインを投げ入れると再びローマを訪れる事が出来るとのでんせつ有名である。
ものすごい人で、おすなおすなの状態、コインを投げ入れたが、この歳でははもう一度ここに来るのは無理だ-。

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ここのオープンカフェでバスタを食べた、当然ビールも。

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通称スペイン階段。ここスペイン広場の前にあるトリニタ、ディ、モンティ階段。オードリーのまねをしてアイスクリームを食べたかったが、ここでアイスクリームを食べることは禁止されている。
ものすごい観光客で、グレゴリーペックもオードリーもビックリだろう。

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テルミニ駅の電光掲示板。

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11月3日、ローマ、テルミニ駅からミラノに向け高速鉄道で移動した。貧乏人は当然2等車。
最新鋭機、エウロスター、イタリア、アルタヴェロチクである・

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列車内、常時時速320Km走行。


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Category: イタリア(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、イタリア。ローマ編その1。

11月15日。午後1時、曇り、遠くの山は雪雲でかすんでいる。外気温+3.5度、積雪は13cmまで減ってきた。

イタリア、ローマ(ITALY Roma)

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鉄道切符12


イタリアの鉄道切符。上はナボリセントラル駅からローマテルミニ駅までのもの。2等。
下はタラント駅からナポリセントラル駅までのもの。この鉄道切符を持って居るのにバスに乗せられてしまった?

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2012.10.30午後ナポリからローマに列車で入った。予約を入れておいたYHは駅の側のようだ。ここローマ、テルミニ駅を外に出ようとして脅かされた。私の前を猛ダッシュの黒人の若者、その後を追いかける警官。スリの様だ、ローマに着く早々驚ろかされる。この街では気を引き締めなければと思った。

今夜のユースホステルは駅をでて、歩いて5分もかからなかった。

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Hostel Beautiful 2. 10月30.31.さらに11月1.2日と4泊、4Bed Mixed Dorm Ensite。
10月30日のみ1泊19.90€、¥1,890。他の3日は、1泊25.88€、¥2,459。初めてこんな高いYHに泊まった。
Beautifulなんてうそだー、汚くは無いが何がビュウテフルか? それに4Bedなのに3日目に、なにやらお祭りがあり観光客が沢山来ているので、部屋にもう一つベットを入れさせてほしいと5ベットにされてしまった。

朝食付きでは有るが、このYHの受付で食券もらい隣のレストランでパンとカプチーノと卵焼きを貰って食べる。まあ、2段ベットではないし、なにせロケーションが抜群だったので、よしとした。

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食料の買い出しも隣のテルミニ駅の中にあるスーパで買うことが出来る。駅には沢山の店が並んでいる、レストランも沢山有った。YHを出てすぐの小路に中華料理屋があり、久しぶりに中華料理を食べた。

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30日から街に飛び出して、トラムに乗り、バスに乗って市内を歩きまわった。駅のキオスクで市内地図を買い、地下鉄も3デーチケットを買い地下鉄を乗り回していた。

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ローマはどこに行っても遺跡があり、遺跡の中に街が埋もれているようだ。毎日街中を一人だほっつき歩いて居た。でも、常にスリには警戒を怠りなくである。

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30日、ユース同室に初老の女性が泊まった。東洋人の風貌、カトリックの尼さんだった。声を掛けてみるとカナダ在住の日本人だった。もう日本を離れて30年も達つという。少し日本語が怪しい。

31日から始まるバチカンの祭典のため、カナダの修道院から派遣されてローマにやって来たとのこと。あすバチカンに行くので、もし、興味があるなら案内しますからご一緒しませんかと誘われた。ただ、バチカン市国にはいるには前日までに入域許可書を所得していなければ入られ無いとのこと、この尼さんが何とか入手してあげましようと言ってくれた。

翌31日朝早くバチカン市国に電車で行く。電車を降りて歩いて行くと猛烈なひと、途中でこの尼さんとはぐれてしまった。この日は月1度の法王の講話がサンピエトロ広場である日。広場の柵の入り口で警備をしていたスイス兵に許可書を持って居ないが入る事が出来るかときくと、許可書を所持していない者は中には入ることが出来ないと断られてしまった。

この兵は私の顔をじっとみて、入りたいかと聞くので、入りたいと答えると、内ポケットから許可書を出して手渡ししてくれた。ラッキー!

朝8時頃広場に入ったが続々と信者達が広場に入ってくる。法王が広場に現れるのは10時半。こさめが降り続き肌寒い。10時過ぎに法王が広場に姿を現す。人々は一斉に『パパー、パパー』と声を上げる。10時半からお祈りが始まり、全世界の信者の祝福を祈って12時頃、退出していった。

サンピエトロ広場入域許可書

サンピエト広場入域許可書。

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法王は防弾ガラスに守られた車で信者の間を回っている。2012年であるので以前の法王である、この法王は2013年2月28日に退位している。

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11月1日コロッセウムに行ってみた。

Wikipediaより。

コロッセウム(ラテン語:Colosseum, イタリア語:Colosseo コロッセオ)は、ローマ帝政期に造られた円形闘技場。英語で競技場を指す colosseum や、コロシアムの語源ともなっている。現在ではローマを代表する観光地である

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ローマでの写真が多くなったので2部に分けることにした。次の写真ははその2で。







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Category: イタリア(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、イタリア。バーリ、タラント、そしてナポリ編

11月14日。寒波がやっと通り過ぎたようだ、雪もやみ、午前には晴れ間もいくらか出て来た。しかし昼からはまた曇り、36cmも積もっていた雪も溶け出して、道路はグチャグチャで歩きにくい。

イタリア バーリ (ITALY Bari)

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2012.10.24日午前8時頃バーリの港が見えてきた。

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古い灯台が見えている

イタリア移動図1

2012年10月26日アルバニアのドレース港を23:00にフエリーで出航。アドリア海で夜を迎え翌27日イタリアのバーリ港に朝8時に入った。出来うれば27日中にナポリまで行くつもりで居たので、すぐにバーリの鉄道駅に移動した。前日時刻表でナポリまでの列車の時刻を確認していたので、バーリ-タラント、タラント-ナポリ間の2枚の切符を買った。

その後ナポリからローマは間は鉄道列車で。ローマ-ミラノ間は張り込んで高速鉄道に乗ってみた。ミラマからは国境のベンチミグリアまで鉄道。ベンチミグリアから国境を越えてフランスのニースまで鉄道、この切符はベンチミグリアがイタリア領内なのでミラノ駅で買うことが出来た。

フランスのニースからフランスのマルセイユ間はミラノ駅では買えず。ニースに到着後にニース駅で買うように言われニース駅に到着後1時間後の列車でマルセイユまで移動、この路線は指定席では無く普通列車で移動。コートダシュールの地中海の景色を楽しんでの移動となった。

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ドレース-バーリ間は1日1便づつ双方の港からフエリーが運行している。両国の出入国処理は船内でおこなわれた。税関の検査は無い。この船はアルバニア船籍の船、イタリア船籍の船も同時間にお互いの港を出港する。

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イタリアのバーリ駅、工事中だった

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バーリ駅のホーム。。

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タラント行きの列車は2階建ての列車だった、座席は2階部分、見晴らしが良い。

タラント (Taranto)

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バーリの駅で、バーリ-タラント間とタラント-ナポリ間の2枚の切符を買っておいた、指定席だったので列車の時刻も決まっていた。。タラントでは発車時間の30分前になってもタラント駅の電光掲示板に切符の列車が表示されない、窓口で聞いてみると駅前のバス乗り場に行けと言う、えー? 列車の切符を持って居るのに。その切符をバスの運転手に見せて乗りなさい、と言う。バスに乗り込むと10人程度しかお客がいない。お客が少ないから列車を運休してバスに切り替えたのかな~。

ナポリ(Napoli)

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2012.10.27.午後5時半過ぎにタラントからのバスはナポリ駅前のバス停に着いた。駅構内に入ってキオスクでナポリの市街地図を買い、予約を入れていたユースを探す。地下鉄に乗って3ツ先にある様だった。すぐ地下鉄に降りる。地下鉄駅を出てユースを探す。迷いながら何とかたどり着いた。古い建物の入り口にある入居者一覧にその名前があった。インターホーンで宿泊予約者と名乗ったら3階だという、リフトは無い、重いリュックを担いで息を切らしながら登ったのに3階にはそのユースが無い。ひょっとしてともう一階上まで上ってみるとあった。

ヨーロッパその他の国では日本で言う1階は地階で日本で言う2階は1階という。ちなみに先日行ったイランでも同じだった。ユースのオーナにこの建物にはリフトが無いのかと聞いたら、このあたりは歴史的景観地区で建物の改造は厳しく制限されていて、リフトの設置は認められないのだと言う。

ナポリで泊ったユースホステル。
Giovann!s Home 10月27.28.29日 3泊、Standard 8Bed Mixed Dorm 1泊18€ ¥1.710。

毎晩オーナーが手作りのスパケゲッティを作って無料で振る舞う。壁には世界ユースホステル協会のベスト1に選ばれた認定書が掲げられていた。でも、オーナーがお客の世話を焼きすぎて、かえってうざったい。そーっとしてほしいと思った。

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ナポリの4日間は毎日雨、または曇りで、あの有名なナポリ湾の絶景は見られなかった。カッパをきてカサをさして、薄汚れた小路を夜まで一人で歩き回った。

ある小路に入っていくと、その小路はアフリカからやった来た人々の住む小路だった。道の両側に露店が並んでいる。ここの黒人達は背が高く、顔つきもヨーロッパ人に似た風貌を持って居る。どうもマグレブあたりからやって来た人々がほとんどのようだった。

店の上には『HALAL』の表示がある。

ハラールとは、Wikipedia より。

ハラール(アラビア語: حلال‎ Halāl) は、イスラム法で許された項目をいう。主にイスラム法上で食べられる物のことを表す。

反対に、口にすることを禁止されている物をハラーム(حرام‎ harām)と言い、この語は「禁じられた」という意味でハーレムと同じ語源である。

イスラム法の下では豚肉を食べることは禁じられているが、その他の食品でも加工や調理に関して一定の作法が要求される。この作法が遵守された食品がハラールとされる。

なお、ハラールとハラムの中間に疑わしいものシュブハ(Shubuha)という概念がある。シュブハな食品はできるだけ食べることを避けることとされている。



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古い教会の建物、中に入って見て回った。

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小路裏の人々が住む居住区、生活の貧しさが見て取れる。

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ワインが樽に入れられて売られている、1.20€とは一瓶¥115くらい、庶民の飲み物なのであろう。

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ナポリの町はゴミだらけ。市内の清掃がほとんどストップしているようだ。壁の落書きも多い。

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どの道路にも無粋なゴミ箱が置かれている、この後行ったフランス、スペイン、ポルトガルでもこれと同じゴミ箱が道ばたに連続しておかれていた。

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ナポリでの感想を一言で表すならば、『猛烈に汚い』である。ゴミの収集がどうもまともにされていないようだ。無粋なゴミ箱からゴミがあふれ出している。

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『吉井』の表示? 日本人の店のようだ。

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路肩に止められた車にはこのようにハンドルにカバーが付けられて居る物が多い。盗難防止だ。

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29日、ナポリの海を見たくなり郊外まで電車で出かけてみた。電車は落書きだらけ、線路上にはゴミが散乱していた。海岸は小雨の中冷たそうな波が岩壁に打ち付けられていた。寒いので早々に引き上げてきた。

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10月30日、ナポリ駅からローマに向かう、在来線ではあったが列車のスピードは時速220Kmまで出て居た









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『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、アルバニア、チラナ、ドレース編

11月12日、3日間降り続いて居た雪がやんだ、朝、晴れ間も出ていたが今午前11時、再び雪雲が空を覆っている。外気温-1.4度。積雪31cm。

アルバニア チラナ (ALBANIA Tirane)

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チラナの中心部の街並。

フルギニアの地図1


Wikipediaより。

アルバニア共和国(アルバニアきょうわこく、アルバニア語: Shqipëria)、通称アルバニアは、東ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和国。首都はティラナ。

西はアドリア海に面し、北にはモンテネグロ、東にはマケドニア共和国とコソボ、南にはギリシャがある。

宗教の信者数はオスマン帝国支配等の歴史的経緯から、イスラム教を信仰する国民が大半を占めるが、信仰形態は非常に世俗的である[2]。また、キリスト教の正教会やカトリックの信者も少なくない。人口約300万人。

                                         以上ウィキベディア。

2012.10.24.ギリシャのアテネから22時間掛けてアルバニアの首都チラナに入った。人々の風貌ががらっと変わっていた。あえて言えば、目が鋭く、険悪な顔をした人が多い。この国の民族だけはバルカン半島の他の国の民族と違って学問的にも、どこから来たのか、よくわかっていないそうだ。

以前共産党が支配していた時代、教条的共産主義で、ソ連を批判し、後で中国共産党も批判し、孤立したスターリン主義にしがみついていた、ホッジャ第一書記の時代だ、長い間東ヨーロッパの片隅でほとんど鎖国状態を続けすっかり経済的にも遅れていたため、共産党支配が崩壊した後も国内の混乱で、未だ立ち上がれていない。

1997年1月、国民の約7割が加入していたと言われるネズミ講が破綻し、大暴動が起こる。長い間鎖国状態であったため、国民はこのネズミ講が株式というものだと思い込んで居たそうだ。

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市街中心部にあった銅像、この国の歴史などよく勉強していないので誰の銅像か判らない。私が知っているこの国の人は、あのノーベル平和賞を受賞したマザー、テレサくらいなものだ。

私がこの国を訪れたのは、ただの中継地としての理由だけだった。
ギリシアからイタリアに移動するに際し、ギリシアからは多数の船便がイタリアへ向け頻発している。当初直接イタリア向けの船に乗るつもりで居たが、旅が当初の心づもりより早く進んでいたので2.3日つぶしてからイタリアに入ることにした。どうせなら日本人にはほとんど知られていないアルバニアと言う国にでも寄って覗いてくるのも良いかな~、と思ったからである。従ってこの国の滞在は2泊のみとして、イタリアへ移動することとなった、

チラナで泊まったユースホステルは、Hostel Albvania. 2泊、10月24日25日、 basic 12Bed Mixed Ensuite 11€ 1,045円。

12 Bedとはなっているが、始日オーストラリアからの2人組が同室したのみで、翌日は1人で泊まっていた、朝食付き、静かな秋の日が流れていた。物価が安い。オープンカフェでビールを呑んでも90円位。

後日、アルバニアで使い残したお札をイタリアに入り、両換えしようとしたら。窓口の女性職員に『これは紙くずだ』と両替を断られた。

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この国はオスマン帝国の支配が長かったのでイスラムの影響がまだ強い、ムスリム(イスラム教徒)がまだ相当居るようだ、町の中心部にモスクがあった。

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共産主義時代の建物、

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この建物の壁にも典型的な社会主義リアリズム調のモザイク壁画があった。

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薬店のショーウインドウにはバイアグラが陳列されている。

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アルバニアの郵便ポスト。

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26日イタリアへ移動のため、ここチラナから鉄道で港町ドレースに移動するつもりで駅に出かけた。駅に道路一本離れてバスターミナルがある。バス停には人々が群がってバスも頻発している。ドレースまで35円。30分おきに発車していた。一方、道を挟んだ駅舎は廃墟状態。薄暗い駅舎の中に入ってみると電気が付いていない。10個ほど並んだ窓口の内1つの窓口のカーテンが開けられていた。

聞いてみると汽車は運行しているとのこと。ドレースまで運賃は73円、所要時間はバスの倍の時間がかかり。1時間半とのことだった。チラナ-ドレース間は地図で見ると40Km程度。何で1時間半かかるのか??

駅からホームに出て止って居た列車を見ると窓ガラスが割れまくって居る、2.3割はガラスが全く無い、他はあってもひび割れている。車体は落書きだらけ、ホームは草がぼうぼう。

駅舎内にあった時刻表は手書きで1日に数本しか走っていないようだ。下の写真が手書きの時刻表。

面白そうなので、物好きにもバスを止めて列車で移動することにした。

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手書きの時刻表

1国の首都の鉄道列車駅がこの有様、これであれば鉄道を廃線にしてバス一本にすればと、無責任な外国人は思うのだが、何か理由でも有るのか。

列車が発車して時間がかかる理由がわかった。時速30Km程度で列車は走る。それも常時汽笛を鳴らしながら。なぜ汽笛を鳴らし続けるのかと思って居たら、踏切にさしかかってその理由がわかった。踏切には遮断機も警報装置も無いのだ、踏切のずっと前から警笛をならさなければ危険だ。

切通の箇所に通りかかると、ワルガキドモが列車目がけて石を投げつけてくる、これで窓ガラスが割れまくっていたのだ。でも面白い1時間半の列車の旅だった。

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割れた窓ガラス。

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ほとんどの人はバスで移動するので、列車の乗客はほとんど居ない、個室で横になって移動した。

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列車の屋根はさび付いて真っ赤、壁面には落書きだらけ。一国の首都を発着する鉄道、あなた達には面子という物が無いのか!と、つっ込みたくなる。

ドレース(Durres)

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ドレース駅のホームから駅舎を見る。チラナの駅に比べこちらはまとも。駅舎も比較的新しかった。駅舎からフエリーターミナルまで跨線橋で結ばれていて、歩いて行くのには便利だ。

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ドレースの町には新しい建物が沢山建っていた。

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フエリーターミナル駅舎。

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この船に乗ってアドリア海を渡りイタリアのパーリに向かうのだ。

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この船尾から乗り込む。

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10月27日朝、アドリア海で夜明けを迎えた。






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Category: ギリシア(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、ギリシャ、サントリーニ島編。

11月11日、午後3時、外気温-1.0度。昨日からの雪は断続的に降り続いている。積雪35cm。

ギリシア、サントリーニ島 (GREECE Santorini)

Wikipediaより。

サントリーニ島(Σαντορίνη / Santorini) もしくは ティーラ島(Θήρα / Thira)は、エーゲ海のキクラデス諸島南部に位置するギリシャ領の火山島。かつて大爆発を起こした火山が形成したカルデラ地形で、本島を含めた5つの島々の総称としても用いられる。

カルデラ湾を望む断崖の上に白壁の家々が密集する景観でも知られており、エーゲ海の著名な観光地の一つである。一方で、サントリーニ・カルデラ内では現在も活発な火山活動がある。


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10月18日、シンタグマ広場の争乱に巻き込まれた後、午後5時過ぎに地下鉄と近郊電車を乗り継いで、港のあるピレアス(Pireas)に出かけ、19日のサントリーニ島へのフエリーのチケットを買って帰った。

2012.10.19 午後4時過ぎ電車を乗り継いでピレアスの駅に着いた。写真はピレアスの駅前。この跨線橋を登って港に出て船の乗船口に行く。

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ピレアス港。

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私が乗り込んだのは2ツ並んでいる内の向こう側のPEBYMHO号。

Pireas港

グーグルアースより。

サントリーニの地図1

町は島の西側に集まって居た、西側は海から切り立った崖が続き、街並はその崖の上にある。この高台から東側に緩やかに標高を落とし、東側の海岸は砂浜の海水浴場が続く。

ユースに予約を入れたとき、この島の地理が判らずに東側の海水浴場Parissaに宿を取ってしまった。すばらしい景観は西側に多い。

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乗り込んだフエリーの中にこんな表示があった。この船はたぶん日本の中古船の様だ。

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ピレアス港からはアドリア海の諸島にフエリーが頻発している。この併走していた船はしばらくして離れていった。

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この船は6時に出航して翌朝午前3時45分にサントリーニ島のAthinips港に入港する。エーゲ海が夕日に染まりだした。

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早朝4時前に船は港に入った。港には各ホテルから迎えの車が来ている。迎えの車はどんどん出発して、埠頭には車が居なくなった。港にはタクシー会社もあったが前日ATMから現金を引き出すのを忘れていて、持ち合わせが少ない。近くに居た人に24時間稼働しているATMが無いかと聞いたが山向こうの町に行かなければ無いと言われた。

えーい、面倒だ。真っ暗な道を歩き出した。ここの埠頭から標高200m位道は急登している、真っ暗な山道をひとりで歩いた。結局パリーサのユースに着いたのは午後1時過ぎ、9時間も歩いたことになる、たぶん30Km以上はあっただろう。夜が明けて途中バスが通り過ぎていくが、意地をはって歩き続けた。

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パリーサの街並。

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泊まったユースホステルはAnny Studios-Parissa Beach 10.20. 21.22. 3泊、Standard Bed Mixed Dorm Ensuite 1泊11ユーロ1.045円。

表の海岸通りからこの小路に入ってユースに入って行く。

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チェックインしたらユースのオーナーが、今はお客さんが少ないので(10月下旬)この部屋を使って良いよと、ドアを開けてくれだ。ツインだ!部屋にはバス、トイレも、冷蔵庫、キッチンもある。そしてベランダを開けると目の前はプール!! こんな部屋で1.045円とは、海岸の砂浜まで30mくらい、歩いて5分。10月下旬でも泳いでいるひとがいる。さっそく近くの店で海水着を買って海に入った。

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10月21日バスに乗って島の北東部にあるイア(Oia)の町に出かけた。この街から眺める景観がこの島の売りだ!すばらしい景色、

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この街の建物は真っ白にに塗られている。屋根はエーゲ海の色、コバルトブルーに塗られていてた。

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この日は天気も良くエーゲ海がコバルトブルーに輝いて居る、崖にそって建てられた真っ白な家々。空もコバルトブルーに輝いて居る。

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真っ青な海には、真っ白な豪華客船が停泊している。

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イアの海岸通り。お土産やもたくさんある。この時期、観光時季を過ぎていたので観光客は比較的少なかった。

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エーゲ海の夕暮れ

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この島からアテネに帰る船が朝早い3時半に入港する便しか無く、10月23日仕方が無いので飛行機でここカマリ(Kamari)空港からアテネに戻ることにした。







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Category: ギリシア(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、ギリシャ、アテネ編

11月11日、とうとうやって来た、外は白一色だ、朝起きてから今午前11時、雪が降り続いている、もう積雪は15cmを越えている。

ギリシャ、アテネ(GREECE Athina)

テッサラニキ駅前。

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2012、10、15 午前9時過ぎにソフィアを出たバスは午後5時過ぎに国境を越えてギリシャの地方都市テッサラニキに着いた。バスの終点から道路を挟んで鉄道駅が見えていた。

この駅で6時頃から11時まで時間を過ごした。どうも駅近辺の雰囲気が険悪だ、町には出ないで駅内のレストランなどで時間を過ごすことにする。

前日にEuropean Rail Timetableでテッサラニキからアテネまでの列車は確認している。すぐ駅の窓口に出かけ夜行の列車で移動することにした。夕方乗って朝方到着とすればユースの一泊は省略できる。23:00発05:05着である、時刻表に寝台マークが無かったが、窓口で聞いてみるとやはり寝台車は連結していないとのこと。椅子に座っての夜明かしになった。疲れ切って朝5時にアテネのラリーサ駅に到着した。

駅到着が16日の早朝だったので駅構内で地下鉄が動くまで待っていたが9時過ぎになっても地下鉄のシャッターが上がらない、地下鉄入り口近辺に多くの人々がシャッターを空くのを待っている。近くの人に聞いて見るとストライキの様だ、こんな事は頻繁にあるとのこと。シャッターが上がったのは昼近くの11時頃だった。

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アテネで泊まったユースはあのパルティノンの丘の真下、お土産屋やレストランが並ぶ繁華街の小道のど真ん中にあった。写真の丘がパルティノンの丘。

10月16.17.18日の3泊 Students & Travellers inn Basic 8bed mixed Dorm 1泊12ユーロ、1.140円
その後サントリーニ島に移動して3泊して再びアテネに23日に帰って来て、またここに1泊した、計4泊。

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翌日、17日からこの街を歩き回った。

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アテネの郊外に行くために、近郊電車も乗り回した。港に行く為に乗った電車の駅。電車は落書きだらけ。

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パルティノンの丘、この丘の下に博物館が有り、発掘された遺物が展示されている。

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パルティノン神殿は、あちらこちらで修復工事中、工事の足場が乱立しており、少々興ざめだった。丘に上がる階段状の道は観光客で混雑。

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丘の上に上がる道の途中にある、円形劇場。

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パルティノンの丘からアテネの町を望む。

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18日ゼネストのデモ隊と機動隊の衝突現場に巻き込まれる

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10月18日、明日のサントリーニ島への移動の為、郊外の港に行くつもりで、シンタグマ広場に行った。この広場から地下鉄に乗って港まで行き、19日のフエリーのキップを買っておこうと思ったからである。

10時過ぎに行ったのにまた地下鉄入り口のシャッターは閉まったままだ。またストライキの様だった。この広場の木陰にはいつも野良犬が3.4匹寝そべっている。ベンチに座って犬をかまってシャッターが空くのを待っていた。

11時過ぎ、この広場を取り囲む建物の通りから歌声が聞こえだし、広場に向けて旗を掲げ、歌を歌ったデモ隊が続々と入ってきた。私が休んでいた広場のベンチの周りにもデモ隊がだんだん増えてきて、その数数万の規模になってきた。

最初、広場の外側の少し高くなっている道に、丸腰の警官が数人デモを見ていた。全く険悪な雰囲気は無かったので、私もベンチに座ってデモの様子を見ていたが。ヒヨッと反対側の道を見ると、防毒マスク、盾、銃をもって重装備の警官が数十人、一列になって展開しているのが目に入り、ヤベー、と感じ近くのレストランに逃げ込んだ。

レストランでコーヒーを呑んでいると、突然大音響でレストランの窓ガラスがビリビリと震えだし、レストランの従業員があわてて、テーブルや椅子を持ってきた、入り口の内側ににバリゲートを築くきだした。

外では大音響がビルの谷間に反響している、それに混じってパチパチと豆がはじけるような音が切れ間無く連続して聞こえている。

レストランのマスターがやって来て、ここは危険なので、裏に従業員の出入り口が有り、そこから避難してくださいとのこと。

裏口のドアを開けてビックリした。今まで気がつかなかったが、ドアの向こうの小路は戦闘警察で埋まっていた。またその向こうの小路にはギリシャ国旗を掲げたデモ隊で埋まっている、どうやら政府を支持するデモ隊のようだ。小路に待機していた戦闘警察が一斉に広場に突入して展開した。一斉に催涙弾を発射する。

あのパチパチと豆がはじける様な音はこの催涙銃を発射する音だった。大音響は火炎瓶が炸裂する音だった。ギリシャ国旗を掲げるデモ隊から一斉に歓声と拍手が起こる、もっと催涙弾を発射して反政府デモ隊を蹴散らせと叫んいるようだ。でも、反政府デモ隊数万、政府側のデモ隊は自発的に参加しているようで統制もとれて居ず、どうも数千規模。

そのうちに広場から催涙弾の白い煙がこの小路に流れ込んできた。通りにいた野次馬もデモ隊も一斉に蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。私も小路から広場にでて必死に風上に逃げ出した。

そのときに驚くような光景を目にした。一方方向に一斉に逃げ出す数百人の人々に逆らうように、道の真ん中に立って物を売っている人があちこちに居る。見るとある人はぬらしたタオルを、ある人は防毒マスクを売っているのだ。私もこの防毒マスクを買った、下の写真が其れだ。3ユーロ、約300円。マスクの真ん中にキムコを入れた筒状の突起がある、玩具のような物だ、でも、このマスクをすると咳が止まった。しかし涙は止まらない。

這々の体で800m位い離れたユースに飛び込んだ。ここの小路までも催涙ガスの臭いが流れ込んできている。上空にはヘリが何台も飛び交っていた。

3時間後ヘリの音が聞こえなくなったので、性懲りも無くまた広場に出かけてみた。

広場を囲む建物の小路にデモの残党が数十人づつちらばって固まっている。しかし広場の中心には政府支持派のデモ隊が多数を占めていて、あちらコチラで、国旗を掲げ、ギリシャ正教の賛美歌を大音響で流し、ビールの空き箱を踏み台にしてアジ演説をしている。その周りには数百人の人々が集まって口論をしていた。

デモの強制排除が終わったようで、戦闘警察が一斉に整列して機動隊のバスに乗り込んで撤去をはじめた。そのとき、老婦人が警察の列に向かって飛び出していき、孫のような戦闘警察の若者の手を握って『良くやった』と言うように感謝と激励をしているのをみた。

周りを取り囲む群衆も拍手と歓声を上げ警察の撤去を見送っている。

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10月18日セネストのホースターが街中に貼られていたが、ギリシャ語がわからないので、デモに遭遇するまで判らなかった。

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重武装の戦闘警察。

話によるとギリシャでは労働者の25%以上も公務員が居るとのこと。これは、選挙がある度に当選者が自分を支援してくれた者を公務員に採用させる事が続き、増えた物の様だ。駅の窓口などで見ていると、キップ売りは初老の男性が1人。その後ろに何もせずにお茶を飲んでいる人たちが6.7人。こんなに公務員ばかりではする仕事も無いのだろう、それでも給与は保証されている。驚くべきは基本給に+される30%位の特殊手当などの優遇待遇だ。
おどろくべき手当も数々、定時出勤手当という驚愕すべき手当はその最たる物だ。手当を払わなければ誰も決められた時間までには出勤しないと言うことだ。

借金まみれで、外国から借りた借金の償還不能に落ち込んだ政府がこのような優遇政策の見直しを発表したことに抗議するゼネストだったようだ。労働者は金が無いのであれば外国から借りてくれば良いと言う。でも貸していたドイツは返してくれるアテモ無いギリシャにはもう貸せないという。ドイツの国民は我々が汗水垂らして働いたお金(税金)でギリシャの働かなで遊んでばかり居る人々を何で援助しなければならないのかとドイツ政府に不満をぶつける。

ギリシャ国内でもこの様な公務員の態度に不満を持つ人々が居ることが、今回の騒動で手に取るように判った。でも、一般に人々が最も不満に思って居ることは、彼ら公務員の態度より、ほとんど税金を払っていない超富豪層、特権階級に対する政府の態度のようだった。一説に寄ると数百人の超富豪者が国のお金の30%も握っていて、しかもほとんど税金を払っていないと言われて居る。

でも政府がこの富豪者の支援で政権を維持している現状では、なかなか彼らの懐に手を入れることが出来ないようだ。

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火焔瓶の火で焼け焦げたベンチ。

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催涙弾が炸裂した後。白い粉の跡が残っている。

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戦闘警察が乗ってきた装甲バス。

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私が付ている防毒クマスクは3ユーロ、玩具のような物でも咳は止まった。








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Category: ブルガリア(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、ブルガリア、ソフィア編。

11月10日、まだ初雪は来ない。11時現在外気温+7.5度。朝からの風混じりの雨はやんで晴れ間も出て来た。寒冷前線が通過したのか。でも明日の天気予報を見ると終日雪マーク、温度もほとんど終日-だ、昼の12時にかろうじて+1度となっている。さあ、覚悟を決めて冬を迎えることとするか

ブルガリア、ソフィア (BULGARIA Sofia)

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ソフィア中央駅前。

2012.10.12。駅を出たのは10時過ぎ。ユースのチェックインは12時からなので、ゆっくり歩いて行くことにした。事前に調べたところでは駅からは1Km程度有りそうだ。アチラノ店に飛び込んで聞き、銀行には入って聞きながら探した。私の下手なロシア語とブルガリア語でも何とかコミュニケーションが出来る。1時間半もかかって何とかたどり着いた。

街中の表示はキリル文字、ルーマニアではラテン文字(日本で言うところのローマ字)、旧ソ連圏を通過して来たので、ラテン文字よりかキリル文字の方が見た瞬間に理解できた。

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駅前にあった記念モニュメント。駅前は大きな建物も無く、なんだか田舎くさい。後で知ったのだか、駅の中心部は駅から約1Kmも離れたところにあった。

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ユース近くのマケドニア広場、広場と言うから相当広い広場と思って居たが、だだの道路の三叉路だった。近くで聞いたレストランの店員もそこがマケドニア広場と言われて居ることを知らなかった。

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ソフィアで泊まった、ユースホステル。

Hostel Mostel 10月12.13.14.と3泊した。9Bed Mixed Dorm  1泊 7.90ユーロ、750円。
ここのユースは大変人気があるそうで予約を入れておかなければ、満室で泊まれないとのこと。珍しい事に毎晩スパゲッティとビール中カップが無料で振る舞われた。日本人のパッカーも何人か入れ替わりに訪れて居た。

受付の姉ちゃんもロシア語で通じた。

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ペトカ地下教会(St.Petka Samardzhiiska Church)

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旧市街中心部にあった、聖ペトカ地下教会。

地下道から、屋根だけを地表につきだしている半地下式の教会。オスマン朝の統治下の14世紀に建てられた。イスラム全盛の時代、キリスト教会はこのような形を撮らざるを得なかった。

大型デパートのツムの向こう側にそびえ立つイスラム寺院、バーニャ、バシ、ジャーミヤとは何とも対照的だった。

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外観は窓も無く質素だが、内部装飾はすばらしい。現在は教会を囲むように地下道が整備されていて、お土産屋やカフェが並ぶ賑やかな商店街となっていた。

セルティカ遺跡

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古代の城塞都市セルディカの遺跡。地下鉄工事の際に偶然発見された物で2~14世紀の城壁や門の一部が残り、ローマ時代の壺も発掘された。

ローマ帝国治世下の2世紀に、市の中心部を取り囲むように約400m四方に渡って高さ14mの防壁が巡らされてて居たようである。現在この周りには土産物屋やアンティークショップが集まって居た。

アレキサンダル、ネフスキー寺院(Aleksandar Nevski Memorisl Church)

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5.000人を収容する事が出来る、ブルガリアで最大で最も美しいと言われている寺院。

この寺院はブルガリア独立のきっかけとなった露土(ロシアとトルコ)戦争で戦死した約20万人のロシア兵士を慰霊する目的で建立された。1882年に着工して40年の歳月を掛けて作られた物である。

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華麗なのは外装だけで無く、内部装飾もすばらしく、メノオ゜、大理石をふんだんに使った精巧なモザイク画が壁を覆う壁画。3つある祭壇は中央がロシア、右側がブルガリア、左側がそのほかのスラブ諸国に捧げられたものである。

イヴァノヴォの岩窟教会群 (Ivanovo Ивановски Скални Цьркви)

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ブガリア北部にあるイヴァノヴォの洞窟。洞窟内には「主の渓谷聖堂」という教会が有り、内部には聖人を書いたフレスコ画がある。一時には300を超す礼拝堂や聖堂が作られ聖地として栄えたが、14世紀に入りオスマン朝の支配下に入り放棄された。半分以上は朽ち果てている。世界遺産登録。

リラの僧院にオプショナルツアーで出かけた途中にこの岩窟教会をおつずれた。バスを降りてから山道を30分も登ってやった山の中の教会にたどり着いた。狭いトンネル状の洞穴の中に潜り込み、やっと教会の中にたどり着いた。懐中電灯が必携。

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リラの僧院 (Rilski Manastir Рилски Манастир)

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10月13日泊まって居たYHでリラの僧院日帰りツアーを募集していたので参加することにした。35ユーローと言われて居たのに、YHに帰り着いて代金を払おうとしたら30ユーロだった。

ソフィアの南約65Km。リラ山脈の奥深くひっそりとリラの僧院はあった。ブリガリア正教の総本山とも言うべき僧院である。バスに乗って鬱蒼とした山道の森の中を進んでいくと突然僧院の門が現れた。

僧院の歴史は10世紀に遡る。イヴァン、リルスキという僧が隠遁の地としてこの場所を選んだ。始め小さな寺院を建立。それがやがて中世の宗教と文化の中心となっていったのである。

現在の形になったのは14世紀。時の王の庇護のもとで僧院文化は華開いた。その後、約500年にわたってブルガリアはオスマン朝の支配下にはいる。この間キリスト教の信仰はもちろんブルガリア語の書物を読むことは制限されていたが、この僧院だけはそれらが黙認されていた。往時には約300の房に全国から僧が集まり、寝起きしていたと言われる。
僧院の建物は1833年の火災でおおかた燃えてしまったが、その後再建され、1983年にはユネスコの世界遺産に登録されている。

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ブルガリアのポスト

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美味しそうなスイーツ、でもやめておいた、腹下しでもしたら大変だから。

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10月15日、朝09:25に、アフトガーラ、イズトクからバスにてギリシャに向かった。ギリアの国境を越えてすぐのテッサラニキまでである。

アフトガーラはバスターミナルのこと。ソフィアにはそのほかツェントラルナ(中央の意)、アフトガーラがある。
ルーマニアでもバスセンターはアフトガーラだった。トルコになるとオトガルである、またロシア語ではアフト、バクザールという。

このバス、車内でインターネットが繋がる、WiFiで繋いで見たが、簡単に繋がった、でも走行中にデスプレーの小さい文字を見ていると、胸が悪くなったのですぐ切ったしまった。

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ブルガリアとギリシアり国境近く。バスはサービスエリアーで休憩ため停車した。

ギリアはシンゲン条約加入国、ブルガリアは未加入国。出入国管理官がバスに乗り込んできて、バスの中で手続きが終わった。


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Category: ルーマニア(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、ルーマニア、ブカレスト編

11月09日、昨日から今日は霙または雪になるかもと天気予報が出ていたが穏やかな1日になった、曇りではあるが時々晴れ間も覗く。

山の初冠雪は例年よりも10日も早かったが、平地の初雪はまだ、例年10月下旬か遅くとも11月の初めには雪が訪れて居るのに今年はまだである。

ルーマニア、ブカレスト(ROMANIA Bucuresti)

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2012.10.08.11:25分にシギショアラを出て午後4時過ぎにブカレストに到着する予定であったが、隣国ハンガリーりのブタペストを発車した列車は80分も遅れてシギショアラに到着、おかげでブカレスト到着は午後6時近くになってしまった。駅構内で昼食とも夕食とも付かない食事を終え駅を出るともう暗くなっていた。

ここブカレスト、ノルド駅は悪名が高い。駅付近ではスリや強盗事件が頻発、警官も腐っている。警官もジーパンにTシャツ、その上にチョッキを羽織っている。チョッキの背中にPORISの表示、腰にはピストル、誰が警官なのか偽警官なのか判らない状態。

薄暗くなった駅前をリュックを背負った年寄りがほっつき歩くのは危険と、ひさしぶりにタクシーに乗ることにした。値段交渉に入ると、『メーターだ』と、とりつく暇も無い。暗い街中を約40分も走ってやっと予約を入れておいたYHに着いた。日本円で1,200円の請求、べらぼうめー。文句を付けたがメーターがそう表示している。

翌日YHをでて街中を散歩していると600mも離れずに駅があった。やられたー。

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ノルド駅で昼食兼夕食を食べた。

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ブカレスト、ノルド駅は巨大な駅だった。コンコースから出口に続く通路。

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駅の出口を出ると地下鉄駅に降りる階段があった。駅前の風景。

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ブカレストで泊まったユースホステルの入り口。
Green Frag Hostel 3泊、8ベット、ミックス、ドミ。1泊30ルーマニア、レイ(RON) 日本円で1.300円

右手の階段を上がりドアをおして中に入る、玄関ホールには大型冷蔵庫がありジュースやビールが冷えている。
また階段の下にはテーブルと椅子があり脇に灰皿が有り、町歩きに疲れて帰って来たら此処でビールを飲んでタバコをすっていた、いつも猫が2.3匹うろちょろしていて、私が椅子に座ると膝に飛び上がって乗ってくる。猫好きが判るようだ、これだから街から帰るときに猫の餌を買って帰らなければならない。

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国民の館前の統一大通。

ルーマニアの首都ブカレスト(ルーマニア語での発音ブクレシュテイ)。カルパチア山脈の南に広がるワラキア地方の南東に位置している。人口194万人。

20世紀初めには、「バルカンの小バリ」と称されるほど美しい街並を誇っていたが、いまはその面影は旧市街のごく一部と凱旋門に続く通り沿いのみ。
古い教会や歴史的建築物は独裁を続けてきた共産党の手によってことごとく破壊されている。通りを歩いていると巨大な建築群がやたらに目にとまる、その最たる物は故チャウシェスク大統領の野望を有形化した旧共産党本部や国民の館だった。

統一大通り。国民の館を起点として約4Kmにわたりブカレストの町を走り抜ける大通り。統一広場でブラチアス通りと交差している。メガロマニアと呼ばれたチャウシェスクはバリのシャンゼリゼ通りと寸分違わない幅、長さを実現しょうとしたが、現実には幅が6mひろくなっていた。

統一大通りの両側には高さが同じ豪華マンションが続いて居る。当時は政府要人の住む住居街とする予定だったらしい。今は一般人が住んでいる様だ。この地域は以前ブカレストでも最も古い旧市街地だったがこの大通りを建設するために沢山の史跡や建物が取り壊され、街並が塗り替えられた。

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国民の館 (Casa Poporului)。

故チヤウシェスク大統領が、日本円にして約1500億円を投じて作らせたという巨大宮殿。部屋数は3102室、世界中のか官庁、宮殿などの建物ま中で、アメリカのペンタゴンに継ぐ規模と言われて居る。宮殿内部は、天井、壁、窓枠に至るまでふんだんに純金が使われている。正に贅の限りを尽くして作られたため、国民は飢餓を強いられた。

現在は各政党のオフィスが入居する外か、国際会議やコンサートに使われている。

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国民の館、中央入口階段。

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旧市街の街並。

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このような古い建物は数は少ないが旧市街地にいくらかのこっていた。

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この街にも例のショップがあった。

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町角にあるATM、とこの国でも町角の外壁にATMがあり、日本のように銀行の建物の中に入らなくとも良い、また24時間稼働している物がほとんどだ。非常に便利だが、現金を引き出す場合はあたりを見渡して近くに人が居ない時を目がけて素早く操作をしなければ危険。

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ブカレスト地下鉄のホーム。

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10月11日、ブカレスト、ノルド駅からブルガリアのソフィアまで移動となった。10月11日23:15発、ソフィア着10月12日09:25着の寝台列車である。


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一人旅ではチョットでも荷物から目を離すと置き引きに遭う。ベンチに座って列車を待つ間はこの様に荷物を鎖でベンチに固定することが必要である。

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国際列車の乗車券。下は普通乗車券でブカレストからブルガリアのソフィアまでの乗車券、上は寝台券(座席指定を含む)。
ヨーロッパの鉄道切符は様々で、このように乗車券と指定券または寝台車券が別になっているものもあり、また1枚のキップに全部が含まれている物もある(包括乗車券)。

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ヨーロッパの列車はまだ電気機関車が牽引する列車が残って居る。列車はワゴン(個室)なっている物が多い。中国や旧ソ連圏の列車は廊下と個室を隔てるドアや壁は木製で、廊下から室内は見えない。一方このルーマニアあたりから西へ行くと廊下と個室の壁やドアはガラスになっていて、廊下から室内が見える。室内は3席向き合いで6席が多く、中には2×2で、4席の物もある(2等車の場合)、1等車は乗っていないので判らない。高速列車はほとんどが日本と同じオーブン席である。

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Category: ルーマニア(2012ユーラシア大陸横断の旅)   Tags: ---

『禿爺のユーラシア大陸横断の一人旅』旅行記、ルーマニア、シギショアラ編

11月07日。19時、雨が降り出してきている、遠くから雷鳴が聞こえだした。天気予報ではこの雨は明日にでも霙または雪に変わるかもと報じている、でも現在は外気温+10度、寒冷前線が雷鳴をとどろかせている、前線が通過後温度が急激に下がりそうだ。

今日も日中昼寝をしたがまだ完全には時差ボケから脱出出来ていない。目がしょぼつき頭が重い。でも気力の喪失感は無い、肉体的な影響のみだ。

ルーマニア、シギショアラ (ROMANIA Sighisoara)

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2012、10、05日朝早くブラショフのYHをチェックアウトし、08:40の列車でシギショアラに向かった。ブラショフから120Km、約2時間半の鉄道の旅だ。11:40にシギショアラ着。

シギショアラではYH、Nathanss Villa Sighisoaraに3泊した。1泊11ユーロ(1,045円)。

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シギショアラ駅。

シギショアラはルーマニア、トランシルヴァニアの中心に位置する街だ。現在も中世の面影を色濃く残した街並、観光化されていない鄙びた静かな街だった。

この町の歴史は1191年ハンガリーのクラウス王の命令でザクセン人が入植したことに始まる。ドイツ名をシェースブルグ(SchaBburg)といい、15~16世紀の繁栄の絶頂期には15のギルドをもつ城塞都市であった。街のシンボルでもある時計台は14世紀の物だ。現在の人口はおよそ3万人である。

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駅から街の中心部は少し離れていて、特に旧市街の中心は山の上にある時計塔を中心としたあたりにある。
この川の橋を渡って左側を進んでいき山に上がる坂道を進んで旧市街の中心部に出る。

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川のほとりにある正教会(Biserica Ortodoxa Romana)の教会。

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山の下から旧市街を望む。

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街中の家々にはガスメーターが設置しれていた。以前アマチュア無線に夢中になっていたとき、ヨーロッパの無線局から家々の暖房は石油からガスに切り替わってきたと聞いて居た。ロシアからのガスパイプラインの設置がすすみガスが普及していることがよくわかる。

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地元の女子高生と思われる一団が先生に引率されて山道を上がってきた。賑やかなこと。

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山に上がる道は石畳が続いていた。

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この建物が時計塔である。

14世紀に、シギシヨアラが商工ギルドによる自治都市となったのを記念して建てられた街のシンボルである。1670年に焼失、その後再建された物である。この塔の下には小さいながら広場になっており、取り囲む建物の前にはオープンカフェが出て居た。

この広場の一角に『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとなった、串刺し公、ブラド3世の生家があった。先に訪ねたブラショフ近郊のブラン城は彼が後に住んでいたところで、゛生家はここシギショアラにある。

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旧市街地には中世ドイツ風の建物が続いていた。

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時計塔が有る山の上から下の旧市街地を望む。

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旧市街地の道路沿いの家々には花が飾られていて美しい。観光客も思ったより少なく、時間も静かに流れていた。
この度の旅で最も思い出に残った街の一つであった。

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ポーランドの郵便ポスト。

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シギショアラ駅の入り口。

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シギショアラには10月5日から3泊し10月8日ブカレストに列車で移動した。シギショアラの駅のプラットホーム。この列車はハンガリーのブタペストから走ってくる、80分も遅れて入線して来た。この程度の遅れはしばしば有るとのこと。お客さんも騒がずに待っていた。

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