HIDEのPhoto BLOG

北国での日々の生活や個人旅行を写真でお知らせします。


In 04 2009

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20
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今日もバードウォッチング。

 4月20日。起床時間8時00分。外気温6度、快晴。

このところ早朝の冷え込みは相当厳しく今朝も夜明け頃には+1度まで下がったようだ。でも昼頃から暖かくなり今午後4時半で16度、本当に春らしい陽気になっています。

昨日は宮島沼にバードウォッチンクに出かけるも天気は快晴であったが冷たい強風が吹きつのり、沼にはほとんどマガンも居ず1時間でリタイアー。再度5時半頃、マガンが沼に帰ってくる時間をめがけて再チャレンジしました。

5時半過ぎに沼に着くとさすが日曜日、日中にはほとんど居なかった観光客も、駐車所に車を止めるにも難しいほど集まっています。この沼に集結するマガンは例年春期には4万、秋期には7万と言われていましたが、今年は初めてのマガンも1週間程度早く到着、昨日には最大6万5千羽にもなりました。19日にはまだ6万羽以上が居るとのこと。夕方の沼に帰ってくる『沼入り』も例年より1時間も長く続きました。さすが4万と6万ではものすごい差です。

夢中で写真を撮り続けましたが思うような写真は有りませんでした。『この、下手くそ!!』。

20日(今日)もまた沼にご出勤。今日は風も弱く、晴れているので沼には沢山のマガン達が留まっています。今日はウォッチンクに専念。でも稀少種は発見できず、3時間沼に留まって帰宅しました。

4月19日マガンの『沼入り』時に撮影した物

4月19日No11

4月19陽No9

4月19日No14

4月19日No13

4月20日日中に撮影したもの

4月20日No6

4月20日No3

4月20日No1


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やっとバードウォッチングを始めました。

 4月19日(日)。起床時間7時30分。快晴、外気温6度。

しばらくBlogの更新をさぼっていました。ウズベキスタンの歴史的建造物の最終編のコメントも途中で放棄状態、まづいなーとは思いながらなかなか手が付かない状態。鬱状態が少しぶり返していました。

今日は日曜日、朝から快晴、外の空気は冷たいが春の陽に誘われて思い切って外に飛び出しました。気分転換のためです。向かった先は毎年春先に通っていた宮島沼。マガンに会いに行きました。

沼は今日も風が強く、沼にとどまっているマガンは少し。沼に到着してカメラ、スコープのセッテングをしている最中に一斉に沼を飛び立って周りの田んぼへと出て行き沼に留まっているマガンはほとんどいません。1時間ほど沼にとどまっていましたが寒風がますます強くなるばかりです。
夕方沼入りの時間に出直す事にして沼を離れました。

4月19日No8

今日は日曜日、沼に到着した11時過ぎにはバードウォッチヤーの団体が来ていました。11時半ころ彼らが帰った後は寒風のせいか人はほとんどいません。マガンも周りの田圃で食事中、沼は静まりかえっています。向こうの山々は樺戸連山。

4月19日No7

帰りの道ばたの春まき小麦畑にマガン達がとどまっています。農家の人々はマガンの食害で被害を受けています。自然と人間の生活との共生はなかなか難しい物があります。この地方の人々は長い間この問題について討議を重ねこの自然を守ることについて理解が広まってはいますが。

4月19日No2

マガン。

4月19日No3

マガンは編隊を組んで飛んでいきます。

4月19日No5

防風林がどこまでも続く石狩平野の早春の風景。

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14
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ウズベキスタンの歴史的な建造物、最終回(サマルカンド編)

 4月14日、起床時間7時35分。晴れ、外気温+6度。

昨晩と言おうか今朝と言うべきか午前2までパソコンの前に座って旅行の際の写真整理に夢中になっていた。今朝は7時半起床と遅い目覚めであったが、午前中は頭がさえなかった。
今日で『ウズベキスタンの歴史的な建造物』編は最終回とする。

サマルカンド Samrqand の建築物

グル.エミール廟

う158

グル.エミール(アミールの墳墓)はアムール.チムールが最も愛した孫、ムハンマド.スルタンが1403年病気のため急死した後この地に埋葬されだた。棺の上にはチムリドの家族の墳墓となった膨大な廟が建設された。

レギスタン広場

う171



シェル.ドルのマドラサ

う172

2つのドームの廟

う174

ウルグベクの天文台

う175

サマルカンド天文台は1018の星のカタログと理論的な序論を含んだ「ウルグベクのジジャ」を出版して世界中有名になった。

アムール.チムールのジュマ モスク

う176

アムール.チムールのジュマ モスク

う177

修復されていないモスクの内部

う179

チムール一族の廟群

ウズベキスタン表紙No5

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12
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ウズベキスタンの歴史的な建造物(ブハラ、シャフリサフス編)。

 4月12日。起床時間8時30分今朝は寝過ごした。寝過ぎて頭がすっきりしない。薄曇り、外気温+11度。

 一昨日、昨日の様な快晴ではないが、すこし春霞の様な感じて薄曇りといったところか。家の南側の庭には今が盛りとクロッカスの花が咲き乱れているというのに、道の向こうの廃屋の家陰の雪山はまだ消えていない。

庭の草花

残雪1

今日も『ウズベキスタンの歴史的な建造物』第2弾、ブハラ、シヤフリサブス編です。

ブハラ Boxoro の建築物

修復中のウルクベク マドラサ

う139

行く先々で古い建築物の修復が行われていました。この写真で見るように足場などは日本と比較して今にも崩れそうな足場で、それも少人数で手作業の作業、修復完成まで何年もかかるでしょう。この工事中の門をくぐって中に入り、夕方民族舞踊を見ながら食事をしました(先日上げた動画)。

う140

この修理中の門の上部には具象画の動物の絵が描かれています。一般的にイスラム教では偶像崇拝に繋がる具象画は忌避されますが、この地はイスラムが入る7世紀以前、拝火教(ゾロアスター教)の文化があり、この名残がイスラムと同化しているのです。
 
ナディール ディヴァン ベキのハナカの堂内上部の装飾。

う141

ナディール ディヴアン ベキはスーフィー派の滞在と思索のための場所ハナカを建設した(17世紀)、堂内の装飾はすばらしく美しい。当然修復されたものである。

ナディール ディヴァン ベキのハナカの門と外観

う142

この建築物はドームの下に十字形のホールがあり、各角にフジュラがある大規模な長方形の構造である。前に少し見えている貯水池は後に作られた物である。

保存されているサライ

う143

サライはラクダの隊商を組んで砂漠を旅してきた商隊がオアシスに到達して泊まる宿屋でした。下に見える部屋にはラクダが入れられ、商人達は二階部に宿泊します。今はブドウ棚が作られている広場には運んできた商品がラクダから下され、またこの場所でも取引が行われていました。


マゴキ.アッタル モスク

う144

最も古代のモスク、ブハラの中心部に12世紀頃に建設された。

ショッピング モール(商店街)

う145

中世のブハラには広場と交差点にドーム型および多弓形の多くの建物が建てられ、トキ(ドーム)と名付けられる市場の役割を果たす施設であった。

ミリ.アラブ マドラサ

う146

カラン モスクの前にある、現在も機能しているミリ.アラブ マドラサ(神学校)である。ソビエト時代後、最も尊重される最高級のイスラム教の神学校である。

カラン モスク

う147

16世紀の初頭の最初のシャイバニー時代に建設された。それ以来、ソビエト時代をを除きこのモスクはブハラの大聖堂モスクとしての役割をはたしている。

モスク内部のミフラブとミンバル

う148

モスクの内部にはメッカの方向の壁にミフラブがあり、その脇には導師が説教をする階段状のミンバルがある。

モスクの内部

う149

モスクの内部には壁にミフラブとミンバルがあり、床には絨毯が敷かれ柱が乱立しているだけで、後は無いもない。

イスラムのシルエット

う150

クケルダシュ.マドラサと広場

う151

16世紀アブドラ.ハン2世の時代に建設されたマドラサ。

アルク城とその門。

う152

アルク城はマンギトウ王朝(1747-1920)の時代に現在の外観となった。当時アルク城はブハラハン国の中心地であった。1920年ソビエト赤軍の爆撃により崩壊。現在修復作業が行われている。

う159

門を入り、内部にはいると1920年の爆撃により瓦礫の山となった廃墟が広がっていた。

アルク城の廃墟からみたブハラの街並。

う153

ボロ.ハウズ モスク

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1712年に建設された冬用の建物である。

チョル.ミノル

う160

1807年に建設された四つのミナレットを持つ珍しいマドラサ。

シャフリサブス SHAKHRISABZ の建築物

アク サライ

う155

アクは『白い、壮大な』の意味、サライは『宮殿』を意味し。チムール時代の1380-1396年の間に建設された。16世紀後半チムール王朝の蹟を消そうとしていたシェイバニー族の時代に宮殿の建物が壊された。今残っている遺跡の高さは38mであるが元々の高さは50mでこの2つの棟状の建物は上部で繋がっていた。

アク サライの上部から東を望む

う156

アク サライの写真向かってと右側の棟状の遺跡は最上階部分まで上ることができた。シャフリサブスの街並みの東には高い山脈が望むことができた。雪をかぶった山々の向こう側はタジキスタン、キリギスタンである。

アミール.チムール像

う157

シャフリサブスはアミール.チムールの生まれ故郷である。ウズベキスタンの偉大な父チムールの巨大な銅像が建っていた。



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11
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ウズベキスタンの歴史的な建造物(タシュケント ヒワ編)。

 4月11日。起床時間6時30分、快晴、外気温+6度。

昨日に引き続き教も快晴、雲一つ見あたらない。今午後2時16度まで温度が上がってきた。西の樺戸連山がこの快晴の陽の光を反射して真っ白に輝いている。

この度のウズベキスタン旅行はもっぱら世界遺産にも登録されている歴史的建築物を見て回る旅行であった。数回に分けて各地の主な歴史的建築物を紹介する。コメントおよび写真は幾分専門的になりますが、興味のない方の写真だけでも見とばしてください。

タシュケント TASHKENT の建築物

クケルダシュ マドラサ (神学校)

う119

1560年タシュケントのハンのワジルによって建設。19世紀にはこのマドラサはコーカンドハンの城であった。1950年から修復が始まった、正面には16世紀のモザイクの飾り付けが残っている。

バラク ハン マドラサ

う121

1550年にバクラ ハンにより建設。マドラサ正面には16世紀のモザイクの飾り付けが残っている。20世紀の半ばころからこのマドラサには中央アジアイスラム教徒の聖幹部があった。1955-1963年にこのマドラサは優れた職人のウスタ シリンによって修復されて、2006-2007年にハゾレチ イマムのアンサンブルの一部として復元された。

ジャミ モスク (寺院)

う122

15-16世紀にタシュケントが大きな中央アジアの町になった頃その中心地に壮大なジャミ モスクという金曜モスクとホジャ アフラル マドラサが現れた16-20世紀に何度もこのモスクは再建された。ソビエト時代にマドラサが解体されそのレンガがこのモスクの修復のために使われた。

ヒワ (ヒヴァ) KHIVA の建築物

朝日に輝くイチャン カラ (内部の城)

う134

イチャン カラは文字通りヒワの内部の都市である。16-17世紀それはヒワの境界で有った。イチャン カラは長さ2,200m、高さは7-8m、土壁で囲まれている。ここはユネスコの世界遺産に登録されている。

ムハマット.アミン.ハン、マドラサ。 カルタ ミノル (低いミナレット)

う129

このミナレットは中央アジアの最も高いミナレットになるはずであった。工事はトルクメン人との戦い後の1855年にムハンマドアミン、ハンが死んだときに中断された。ミナレットの高さは26mある。表面は有色のガラス張りのタイルで完全に覆われている唯一のミナレットである。

クナフ.アルクから望んだヒワの町並み

う132

ハフラヴァン.マフムド廟の門

う136

この門を入るとバフラヴァン マフムドの墓があり、ここは共同墓地となっている。

モスクの入り口に掲げられている礼拝用の時計。

う133

現在も活動中のモスクの入り口付近には、イスラム教の1日5回の礼拝用の時計が掲げられている。

モスク内で行われていたイスラム教の法要(動画


ウズベキスタンのモスクでのイスラム教の法要

見学に行った際にモスクのお堂ないで法要らしきものが行われていた。詳しくはわからない。とても異教徒が聞く雰囲気ではなかったが、異教徒の我々グルーブの参加も認めてくれ、写真撮影もゆるしてくれた。

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10
Category: ウズベキスタン旅行   Tags: ---

ウズベキスタンで出会った人々(その4、最終回)

 4月10日。起床時間6時35分、曇り、外気温+8度。

このパソコンを置いてある部屋は南側と西側に窓がある。南側の窓からは隣の家に遮られて庭の花畑しか見えない。西側は道路に面しているので、いつもパソコンに向かいながら時々遠くの山並みに目線を移している。長時間パソコンのデスプレーに目を凝らしていると疲れで目がかすみ出すので、窓から見える遠くの山に目を移して休ませている。

西側の道路の向こうの家陰の残雪の山も日々小さくなりつつあるがまだ残っている。南の本州からは桜前線北上の便りが連日伝えられてくるがこの北国の地には桜の開花も今しばらくかかるであろう。遠くに見えている樺戸連山もまだ麓まで真っ白だ。

今日も『ウズベキスタンで出会った人々』の写真をUPするが、人物写真は一応今日で最終回とするつもり。

サマルカンドのウルグベク マドラサ(神学校)

ウズベキスタン表紙No4

この建物は15世紀頃建設されたが、その後18世紀頃には著しく崩壊し、20世紀には内外の玄関にあるモザイクの修飾部分も崩壊した。その後20世紀に修復作業が始まり少しずつ昔の姿を取り戻し、現在の姿になっている。

う16

キジル クム砂漠のど真ん中、アム.ダリヤ河畔の一軒家から飛び出してきた犬たちと子供達は我々おじさん、おばさんからそれぞれ子供には日本から持ってきたキャンデーが、犬には昼の弁当のパンの残りをもらって大喜び。

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この子の着ている服の柄がウズベク人の昔からの民族模様である。

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春が来て木々も花をつけだしてはいるがまだまだ朝夕の温度は低い。大陸性気候のこの地は日中と夜の寒暖の差は大きい。風も北風になると北の西シベリヤから冷たい北風が吹いてくる。おばあちゃんと散歩中のこの子も冬支度だ。

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サマルカンドの博物館を見学したときに、中は展示物も今ひとつ、照明も暗かったので私はみんなと離れ博物館の入り口で切符もぎのおばちゃん達と立ち話をすることにした。
ロシア語を自由に話す日本人は初めてと、事務所の中でのお茶に誘われた。珍しいのか仕事をそっちのけで入り口の反対側にあった事務所で働いていたオバチャンも仲間に入って、ウズベキスタンと日本の生活に付いての話に花が咲いた。
 このオバチャンたちはもう年金生活に入っているが年金は日本円にして月約5,000円、とても生活ができないとここで働いている。私に年金をいくらもらっているのかと聞くので正直に話すと。びっくりして、桁が違うのではないかと驚く。一人が日本ではそんなに年金をもらうことができるのであれは、帰りに連れて行ってほしい。洗濯も食事も一生懸命に働くから、是非連れて行けと言い出すと、私も、私もと言い出した。みんなで腹を抱えて笑い転げた。
心の中ではいくら何でもこの連中では勘弁してもらいたいとは思うも、ただ笑ってごまかすのみであった。

必ず送ることを約束して記念写真を撮った。帰国後昨日9日にこの写真を送っておいた。海外旅行をしていると現地の人から日本人の観光客は写真を送ると言ってもさっぱり送ってこないと苦情を聞く。私は過去約束したものは100%写真を送ってきた。もう十数回にもなるが未だ受け取ったとの返事は一度も受け取っていない。どうなっているのか!!

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サマルカンドの市場にて。田舎から出てきたおばあさんが孫のおみやげでも品定めをしているのであろうか。

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訪れた街々でこの様な囲碁のようなゲームをしている人々をよく見かけた。


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09
Category: ウズベキスタン旅行   Tags: ---

ウズベキスタンで出会った人々(その3)

 4月8日。起床時間7時50分。快晴、外気温+6度。

毎朝快晴が続いています。前の家の陰の残雪も日に日に小さくなってきました。知人のブログでは連日マガンや白鳥のの写真がUPされています。例年この季節には近くのラムサール登録地の沼に毎日のように通ってバードウォッチングに夢中になっていました。沼の氷も溶け出したとの便りもあるのに今年はまだ1度も行っていません。帰国後の写真の整理に夢中になり時間がないのです。心に幾分の焦りがありますが、今しばらく辛抱します。それに明日、車の車検に出す予定、3.4日は家にとどまることにします。

今日も『ウズベキスタンで出会った人々』写真の第3弾です。

サマルカンドのグリ アミール廟 (14世紀)

ウズベキスタン表紙No3


うNo15

3月30日ヒワからブハラまで丸1日かけてバスでキジル クム砂漠を走り抜けて移動した。昼過ぎにアレクサンダー大王のインド遠征の際に彼の大軍団が渡河したと伝えられるアム.ダリヤ河畔に到達。川岸には1つの建物あり、見渡す限り視界にはこの建物しか目に入らない。砂漠の中を大河川が横たわっていた。
 我々のバスが停車すると3匹の犬と子犬のような子供2人が建物から走り出してきた。犬も子供も人が懐かしいのか、おとなしく我々にまとわりつく。その建物の中に住む人は何の仕事に就いているのか。河川管理の仕事か、または道路管理か、それにしてもこんな砂漠地帯のど真ん中に1家族だけで暮らしていくのは大変だろう。

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携帯電話のメールを確認しながら歩いている婦人。この地も携帯電話中毒の人々がいた。

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4月1日、シャフリサブスで。前夜1日降り続いていた雨もやんだが肌寒い。春休みも終わり今日から始まった学校から帰ってくる子供達に出会う。社会主義国家圏の子供達はこの様な大きなリボンを付け新学期に登校するのが習慣だ(習慣だった)。政治体制が変わってもこの習慣は社会に根付いていているようだ。

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この国の特産物に絨毯がある。アラブ圏、イスラム圏には絨毯が欠かせない。若い娘さんが絨毯を一刺し、一刺し、編み上げていた。『1日にどのくらい働くの?』と聞いてみたが、8時間くらいとのことである。『疲れない?』と聞くと『若いから』と笑って答えてくれた。

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私は子供が大好き。今まで行く先々で子供の写真を撮ってきたが、なかなか自然な笑顔の子供の写真が撮れなかった。今度の旅で少しは自然な笑顔の子供の写真が撮れるようになった。

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ヒワの古い住宅地の小路で出会った少年。残念ながら笑いかけてくれなかった。人それぞれその日その日の気分もあるしね。



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08
Category: ウズベキスタン旅行   Tags: ---

ウズベキスタンで出会った人々(その2)

 4月8日。起床時間7時30分。快晴、外気温+2度。

 今日も昨日に引き続き『ウズベキスタンで出会った人々』です。今回の旅行はどうしてもこの地域に行きたくてツアーに申し込んだ物では有りませんでした。今年長期間の国内旅行を計画していたのですが、事情があり不可能になったとき、ちょうどこの旅行への誘いのパンプレットが送られてきました。見ると通常の料金の6割から7割の値段、それにこの地域は通常ロシア語が理解されていること、この国の近くまでは何度か旅行しましたがまだこの国は訪れていなかったので、旅行に申し込みました。

 往復の移動日2日間をのぞき正味7日間の旅行中多くの地元の人々と話ができ満足のいく旅行となりました

ブハラのウルグベク マドラサ(神学校)。 (14世紀に建設されたもの)

ウズベキスタン表紙No2


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この写真も日曜日にイチヤン カラ城内で撮った物。家族連れで来ていた人たちが、記念写真に収まっている。この古いコスチュームの借り賃は3,000スム。日本円にして約200円。写真屋の親父がカメラのシャッターを押してくれる。私も写真を撮ったもらった。

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この日この古城を見学後城壁の外にあったバザールで自由時間が1時間有った。私は一人で市場の中をひやかし見て歩いた後一人でホテルに帰った。その時地元の人にホテルまでの道を聞きながら帰ったが道に迷って古い住宅密集地に入り込んでしまった。そのときに土壁の住宅地の小路で遊んでいた子供達。
道に迷ったのは、同じ名前のホテルがこの町に3つも有ったからだった。第一マリカホテルから第三マリカまで有った。

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この少女、遠くから歩いて来たときから光っていた。スカーフとコスチューム、スタイル、歩き方、それにちょっと憂いをたたえた可憐な表情。この古都をフアッションショーの会場にして舞台の袖から歩いて出てきたモデルを思わせる。

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このヤバチャン達のいで立ちが一般的なウズベキスタンのオバチャン達の服装です。シャフリサブスで。

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私たちが訪れたモスクは珍しく現在でも活動しているモスクで有った。おじいちゃんか民族衣装で正装をし孫を連れてお参りに来ていた。写真の許可を求めると。入り口の薄暗い場所から明るい所に戻ってきて、写真の被写体になってくれた。

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07
Category: ウズベキスタン旅行   Tags: ---

ウズベキスタンで出会った人々(その1)

 4月7日。起床時間7時20分。晴れ、外気温+8度。外は暖かなのに室内は寒い。ストーブに火をいれた。

 まだ、時差ぼけが完全に治っていない、時間の観念が今ひとつはっきりしない。ひょっとしたらこれば時差ぼけではなく認知症の始まりなのではないのか? 調子を見てみよう。
 旅行中に撮ってきた写真の内Canonの分を一応詳しく確認してみた。今回の撮影枚数は比較的少なかった600枚程度。

 今夜趣味の会の会議があり、会議後の懇親会で旅行の話が出てウズベキスタンから帰ってきたと話したがほとんどの人がウズベキスタンに付いての知識が無かった、そんな名前の国が有るのを知っている程度の人も5.6人。20人近くもいたのに聞いたこともないとは、田舎の老人ってそんな物かな~??
 今日はウズベキスタンの簡単な紹介と旅行行程およびウズベキスタンで出会った人々の写真をUPすることにした。

ブハラのカラン モスク

ウズベキスタン表紙


ウズベキスタンの位置と旅行ルート

ウズベクまでのルート

ウズベキスタン共和国 (Republic of Uzbekista)
ウズベキスタンは中央アジアに位置する、1991年に独立した若い国であが、歴史的には紀元前10世紀ころからたびたびシルクロード上のオアシス都市として知られている。

地勢 北はカザフスタン、東はキルギスタンとタジキスタン、南はアフガニスタン、西はトルクメニスタンと国境を接する。西部から中央部にかけてキジルクム砂漠、中央部はバミール高原に続く山地となっており、アムダリヤ川が低地を横切りアラル海に注いでいる。

気候 アラル海沿岸から中央部にかけては砂漠気候とステップ気候、東部山岳地帯にちかずくにつれ降雨量も増え、温暖な温帯気候になる。
首都 タシュケント
人口 2,737万(2007年)
言語 ウズベク語(公用語)74.3%、ロシア語14.2%、タジク語4.4%。
主な歴史的に有名な都市 タシケント220万、サマルカンド36万、ブハラ24万、コーカンド20万、フェルガナ18万、シャフリシャブス、ヒワ、等
一人あたりの国民総所得 520ドル(2005年)
主な輸出品 綿糸、エネルギー(ガス、石油)、金属品、食料、

旅行で訪れた都市と日程

ウズベクの地図

3月27日、新千歳-成田-韓国のインチョン-タシュケント。
3月28日 タシュケント-ウルゲンチ-ヒワ
3月29日 ヒワ滞在
3月30日 ヒワ-ブハラ
3月31日 ブハラ滞在
4月01日 ブハラ-シャフリサブス-サマルカンド
4月02日 サマルカンド滞在
4月03日 サマルカンド-タシュケント-インチョン
4月04日インチョン-成田-新千歳

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4月29日、ヒワのイチヤン カラで見学していたらちょうど結婚式を済ませた新婚さんが通りかかった、場内のモスクででも式を挙げたのだろうか。まてよ、そもそもイスラム教徒はモスクで結婚式を挙げるのだろうか、解らない。何かこのグループ昔のソ連時代の結婚登録所で簡単に署名しての帰りによく見られたグループによく似ている。帰国後この写真を見てからウズベキスタンの結婚事情を聞いておけば良かったと気が付いた。

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この日(29日)はちょうど日曜日、それに2週間程度の春休み中、昼あたりからこの古城、イチヤン カラの城内は子供連れや学生達の見学グループが増えだしてきた。

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朝の寒かった気温も昼過ぎにはすっかり暖かくなり、春の暖かな光を浴びて気持ちよさそうだ

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お姉ちゃんと一緒。民族服が似合ってますよ。子供達で民族服をきてスカーフで頭を隠している敬虔なイスラム教徒はこの国では少数派の様でした。

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仲良し同級生かな。日本の子供達に比べみんな表情が明るく感ぜられるのは私だけだろうか?

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民族服と民族帽子の老人。この国の大人はほとんど黒色系の服を着ている、ロシア国内も同じであった。

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たぶん恋人同士であろう。女性の民族服はすばらしいが、男性の服装は今一である。この男性の服装、ロシアでもよく見ることができた。

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引率の先生に連れられ小学生の一団が古城内の遺跡見学にやってきた。子供達にロシア語で話しかけてもほとんどの子供は答えることができない、すると引率の先生かロシア語からウズベク語に通訳をしてくれた。

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仲良し同級生か、姉弟か? 表情がすばらしく良い、仲がよい事が文句なしに伝わってくる。


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この姉弟、先日も写真を上げたが本当にかわいい。よほど良い家庭(経済的に良い家庭の意味ではない)で育っているのだろう。

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この子、気品さえ感じられる。耳のイヤリングに注意してください。この国、子供達もほとんどイヤリングでおしゃれしていた。でも、おばあちゃん達でイヤリングをつけた人は1人も見ていない。民族的な習慣ではないようだ。




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06
Category: ウズベキスタン旅行   Tags: ---

ウズベキスタンの民族舞踊。

 4月6日、起床時間6時25分。雨、外気温+5度。

 ウズベクから帰国後まだ時差ぼけが治っていない。昨日どうも頭がもうろうとしたままなのでひるから少し寝てみた、その後写真を整理していたが時間の感覚がなくなり午後7時か8時頃と思っていてそろそろ夕食でもと思い時計を見ると午前1時??あれ-っ時計が狂っているのかと思い、ほかの時計を見るも全部午前1時。午前1時の夕食となった。トホホ。

まだ写真は整理ができていない。今日は旅行途中のヒバでの夕食を取ったマドラサ(神学校)の遺跡の中庭での民族舞踊ショーの様子をアップします。

ウズベクNo1

ヒバでの夕食時の民族舞踊ショー (動画)


ウズベキスタンの民族舞踊

ショーが始まると踊り子のお母さんにに付いてきた女の子が舞台の袖で踊りだしました。こんな小さな時から民族音楽のリズムを身につけていくのでしょう。



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05
Category: ウズベキスタン旅行   Tags: ---

ウズベキスタンから帰りました。

 4月5日、起床時間8時25分。昨夜はぐっすりと眠った。曇り、外気温+8度前の家の陰に雪の山がまだ残っている。

 昨夜、夜の11時過ぎにウズベキスタンの旅行から疲れ切って帰宅しました。4月3日、サマルカンドを13時過ぎにでて、タシュケントまで300Km弱をバスで走行、夜10時過ぎに韓国のソウル(インチョン空港)に向け帰国の途についた。4日朝9時過ぎにインチョン着、乗り継いで成田へ、12時過ぎに成田着、羽田に移動、ここでゆっくり休んで新千歳に9時過ぎに到着、車で2時間かけて自宅へ、疲れ切って風呂に入ってからバタンキューの状態で、今朝は8時過ぎまで寝ていた。

 まだ撮りためた写真、全部見ていない。ゆっくりと見てから整理して順次このBlogi上げるつもりでいる。まずは無事帰国の報告と、彼の地で感じた若干の感想をとりまとめ、報告とする。

ウズベクNo1

 気候は日本の東北地方あたりの様相か、木々の花が少し咲き出していた。ただ朝夕は相当温度が下がる。長袖の服にセーターを着込んでその上にジャンバーを着て過ごした。途中1日雨模様、相当温度も下がり4.5度くらいか。地元の人に聞いてみるとその日は異常に寒いとのこと。ただこの時季(春さき)は朝夕北のシベリヤ西部から冷たい北風が吹いてきて温度が下がるとのこと。

 街中の看板や各種標識の表記言語を見ると、ラテン文字(日本でいうローマ字)が6.7割、3.4割はキリル文字(ロシア語等で使われている文字)である。そのキリル文字のうち半分強はキリル文字で書かれたウズベク語、半分弱がロシア語。ラテン文字表記のうち9割程度が、ラテン文字表記のウズベク語。1割弱が英語で各種文字言語が混在して書かれている。
 人々に聞いてみると、学校での教育はウズベク語で小学校のうちからロシア語、英語教育も行われているようだ。人々にロシア語で話しかけてみると、小学校の低学年ではほとんどロシア語では通じなかった、たまに子供でもロシア語が解る者もいるが顔を見るとロシア人の顔、この子たちは家庭でもロシア語で生活をしているのだろう。中学生あたりからはだんだんとロシア語が解る子供が増えてくる。20歳代以上になるとほとんどの若者はロシア語を解した。30歳以上の大人は全く問題なくロシア語で意志を通じるようだ。

 観光はチムール時代(14世紀)前後のモスク、神学校、霊廟などを中心として見て回ったが、ほとんどの施設は死んでおり、本来的なイスラム教の活動をしている施設は少ない。建物群は記念物、博物館、観光施設になっており、その中に土産屋が密集している。人々もお酒も飲み、豚肉も売られているのにはびっくりした。朝夕のアザーンも滞在中一度も聞かれなかったが、ホテルの従業員に聞いてみると確かにアザーンは流れているとは言っていたが、遠くなので聞こえないと言い訳のような説明をしていた。

ウズベキスタンNo2

 この子はホテルのバーで働いていた娘さん。ロシア族。この国は多民族国家でウズベク人は80%、その他少数民族では、ロシア人5.5%、カザフ人3%、タタール人、カラカルバク人、朝鮮人、キルギス人、ウクライナ人、トルクメン人、トルコ人などが住んでいる。

 この国の歴史を見ると18世紀にロシアの勢力の南下で多くのりロシア人がこの地に住むようになり、19世紀にはロシアの軍事行動によりパミール以西の中央アジアがロシアに征服され、その後ロシア革命後この地にソビエト政府か樹立され、ソビエト連邦の一国となりロシアの影響が強く浸透した。
 このたびの旅行で興味深く感ぜられた事にこの間の事情に関してソビエト時代の歴史書を読むとウズベク人民がロシア人民と協力の下にソビエト政府を樹立したと一貫してその立場で書かれているのに対し、ウズベク人のガイドの説明では完全にソビエト赤軍の侵攻、侵略の立場で一貫して説明をしていたことである。
 先年のチベット旅行でも感ぜられたが、中国政府は一貫して中国共産党政府のチベット解放を主張しているのに対し、チベットの人たちは中国共産党または漢族の侵略、とその後の弾圧ととらえていることに対比される。いや、他国の事でなく、我が日本の過去にも同じ事があった。朝鮮併合が全く同じ状態である。朝鮮併合を肯定的に考え主張する人々が今でも日本には存在するが考えさせられる歴史である。

 また、この旅では朝鮮族の人々にも何回か出会った。韓国語で朝鮮族の人ですか?と話しかけるとキョトンとした表情をして朝鮮語を全く理解できない様子であった。ロシア語に切り替えると、よく解ってくれ、話すことができた。家庭でもおじいちゃん、おばあちゃんの世代しか朝鮮語はわからない様子、家庭内でも会話はロシア語の様だった。この人々は日本の勢力が朝鮮半島に及んだ頃ロシア領の沿海州やハバロフスク地方に逃れ、第二次世界大戦前後にスターリンが彼らが日本のスパイまたは日本に与する勢力になることをおそれ強制的に中央アジアに移動させられた人々の末裔である。ウズベキスタンには現在20万人ほど住んでいるようである。1億2千万の日本の人口に対し、朝鮮、韓国人は約60万。これに対し2千六百万のウズベクの人口に対し20万の朝鮮族いる。
 朝鮮族が比較的多く住んでいることの影響で韓国の企業の進出が多い。街中を走る車はほとんどか韓国のGM大宇製の車であり日本製の車はほとんど見られなかった。ウズベキスタン国内に大宇の自動車工場がある。その他ロシア製のラーダ、モスコビッチのボロ車も走っている。

ウズベキスタンNo3

この写真の左側のオバチャン、眉毛がつながっています!!
 以前ロシアを旅行中にこの手の眉毛の女性を初めて見かけたときびっくりした。この様な眉毛の人種かと疑問に思っていたので良いチャンスと失礼を顧みず尋ねてみたが繋がってはいないようです。確かに眉毛は生まれつき濃く二本の眉毛は近くはあっても切れているようです。ただこの民族の人々は化粧でこの様につなげるのが流行の様でした。

ウズベキスタンNo4

サマルカンドの街中で出会った大学生のお嬢さん達、みんな気楽に話しかけてきた。


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