HIDEのPhoto BLOG

北国での日々の生活や個人旅行を写真でお知らせします。


"イラン" posts

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19
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イラン、イスラム紀行(最終回)

12月19日、快晴、午前10時半、外気温-4.6度。昨日から快晴が続いている、雪がしまってきた。積雪は例年より少ない、26cm。

2013.11.03日中フーアフワーズの近郊を観光して、18時頃アフワーズ国際空港からテヘランのメヘラバード空港に移動して、イランでの最終日を過ごし、04日テヘラン市内の観光をして22時カターメ空港から、ドーハ経由で帰国の途についた。

最終回として、イランで撮りためた写真の内、旅の思い出として残る物を上げたいと思う。

イランで出会ったニャンコ達。

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此処でもニャンコ達は自由気ままに生きていた、

イランで出会ったこども達。

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イランのトイレ

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ホテル内のトイレ、外ではしゃがみ式のものが多かった、今回の旅行ではどこでも汚れては居なかった。便器の側にあるホースはお尻洗浄用のホース、手動式のウオッシュレットだ、紙でお尻は拭かない、ホテル内では温水と冷水の配管が来ていて温度が調整できるが、ドライブインなどでは温水の配管が無いので冬などは冷たいだろう、これも慣れるしか無いのか。外のトイレにはトイレットペーパーは無い。

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07
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イラン、イスラム、紀行 (7)

12月07日、曇り、13時現在外気温-1.0度、積雪17cm。毎日少しずつ雪は解けている。

2013.10.31.前編(6)の続き。

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ナクシェ、ロスタム(Naghsh-e Rostam)

ペルセポリスから約6Km北東にある岩山。ここにはアケメネス朝歴代の大王の墓がある。墓の下部には、馬上の騎士のレリーフが施されている。

とらわれたローマ皇帝の手首をつかむ馬上のシャープルⅠ世。

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クルアーン(コーラン)の門。

シラーズの街の北東にあり、エスハハーンやペルセポリス方面から街に入ってくるときは、必ず目にする玄関口。
門の上部にキャリーム、ハーンによって作られた、古いクルアーン(コーラン)が置かれている小部屋があり、旅をする人の安全を見守ってくれていると言われている。

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ハーフェズ廟(Aramgah-e Hafez)

イラン最大の詩人ハーフェズ(1324~1380)はシラーズに生まれ、ティムールからの誘いにも断り、生涯のほとんどをこの地で過ごした。ここは宗教的な物とは別にイランの良き伝統が感ぜられる場所で会った。

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シラーズの中心に建つザンド朝の宮廷、キャリーム、ハーン城塞。(Arg-e Karim Khan)

ザンド朝時代、キャリーム、ハーンの居城として使われていた城塞。四隅に円塔をもつ四角形で中庭の大きな池を囲っている。


2013.11.01日、この日はシラーズからアフワーズまで移動。580Km、途中の休憩を入れて約10時間のバス移動、疲れた-。

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シラーズからアフヴァーズまでのバス移動の途中立ち寄った、バスターミナルにあった食利用品屋。イランでは湖の様に干しぶどう、ほしアーモンドなど乾燥フールーツが沢山売られていた。

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タンゲ、チョーガンのレリーフ。

シャープール一世の王権叙任, タンゲ・チョーガン渓谷の西岸で都市に一番近くに ある。かなり風化しているが,王権叙任と戦勝という浮彫の二大主題が一つにまとめられ ている。

タンゲ・チョーガーン渓谷東岸,シャープール一世の三重の勝利の次に位置する。バフラーム二世(276-294)がアラブ族の使節を迎えている場を描いている。

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シュシュタルの水利施設・

1973年、パフラヴィー朝は、19世紀以降、水利施設が荒廃していたシューシュタルの再建に乗り出した。フーゼスターン州における農業振興を目的としていた。カルン農業産業会社 (Karun Agro-Industries Corporation) によって、シューシュタル旧市街の対岸にシューシュタル・ニュータウンと呼ばれる町が建設された。シューシュタル・ニュータウンの建設によって、シューシュタルにおける砂糖産業に従事している労働者の住居を提供する一方で、シューシュタル旧市街の再生に関心を持たせると同時にこの地方の経済発展を目指していた。

2009年、シューシュタルの水利施設はUNESCO の世界遺産に「シューシュタルの歴史的水利施設」として登録された。


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スーサの遺跡群。

アフヴァーズの北117Kmに位置する街シュシユ、日本ではスーサとして知られている。この街の起源は古く、紀元前13世紀に遡る。その後何度かの荒廃、復興を繰り返しアラブ人の侵攻の後歴史の舞台から姿を消した。

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チョガ、ザンビール(Chogha Zanbil)。

イラン南西部にある古代エラム王国の遺跡。現在のフーゼスターン州の都市シューシュの南東約40キロメートルに位置する。紀元前13世紀、エラム王国のウンタッシュガル王が首都スーサの南方に建設した聖地。5層のジッグラトを中心に、神殿や王の墓があり、周囲を二重の城壁が囲んでいる。1935年、油田調査の際に偶然発見された。1979年、世界遺産(文化遺産)に登録。

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05
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イラン、イスラム、紀行 (6)

12月05日。曇り、午後4時30分現在、外気温+5.5度。積雪12cm。

2013.10.31.この日は1日中シラーズに留まって、シラーズ観光と、午後からはペルセポリスを観光する予定だった。

シラーズ (Shiraz

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マスジェデ、ナスィーロル、モルク (Masjed-e Nsil ol Molk)

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1887年に完成した、南北二つのエイブァーンのある中庭を持った小さな寺院。ムカルナスと多面天井が連続する北側エイヴァーン。

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ここの見所は西の礼拝堂、中庭に面する壁にはステンドグラスをはめ込んだ連続したアーチで構成され、朝には色とりどりの陽光で絨毯や柱が照らし出され、この世のものとは思えない美しさだ。

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ペルセポリス (Persepolis

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ペルセポリス、イラン観光で一番有名な観光地。ペルセポリスとはペルシァ語で「ペルシスの都」の意味だ。
現在のイランでは「タフテ、ジャムシード」の名前の方が通りが良い。ジャムシードはイランの伝説の英雄の名で、ジャムシードの王座という意味。

シーラーズの北東57Km、標高1800m、マルヴダシュトー平野の一角にあるヘ、ラフマト (Kuh-e Rahmat 慈悲の山)の斜面に築かれたこの都は、行政上の首都サとは別に宗教的な都として栄えた。

写真はクセルクセスの門。

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空飛ぶ双頭鷲像、イラン航空のシンボルマークにも成っている。

BC.522年、ダリウスⅠ世の命により着工、以後3代約60年にわたり、石造りの大基壇(455m×300m.正面の高さ18m)の上に作られた数十棟の建物(跡)が残る。

この都は宮殿や祭儀場であり、堅固な要塞でもあった。それはここから出土した多くのタブレット(粘土板)の記録の大部分に、政治的な内容がないことから推測される。

ペルセポリスでは古代イランのノウルーズ(イラン太陽歴の新年元旦、春と収穫の訪れを祝って今でも正月の行事がおこなわれる)の大祭(通常春分の日)の儀式がおこなわれた。毎年この日には二十数カ国に及ぶ属州より朝貢者が訪れ、財宝や特産物が捧げられたという。

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BC330年、アレクサンドロス大王によって陥落、入城後、大宴会が催されたが、ある夜、百柱の間より出火し、全てが灰燼化したと言われている。

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アーバーダーナー(Apadana)階段のレリーフ。

高さ2.6mの基壇の上に、ダリウスⅠ世の命の元に建設された謁見の間、此処で最も有名なのは、北と東の階段側面のレリーフだ。此処には多数の人物が浮き彫りにされている。23ケ国の属州の朝貢者を表した物だ。


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この牡牛を襲うライオンのレリーフの解釈には諸説むあり。ライオンが夏、牡牛が冬を表し、季節の移り変わりを表している言うのが有力、ライオンか王、牡牛が敵の象徴都見る説もある。

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アバダーナの柱。

アバダー(謁見の間)は高さ19mの36本の柱によってレバノン杉が使われていたという屋根を支えていた、この36本の内現存するのは16本が原型をとどめている。

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タチャラ(ダイオレスⅠ世の宮殿) Tachara

ダイオレスⅠ世のプライベートな宮殿。タチャラとは「冬の宮殿」と言う意味だ。健在に磨き抜かれた黒大理石を使って居るため「鏡の間」とも呼ばれている。

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百柱の間(王座の間)Palace of 100 Columna

かっては100本の柱を有していたベルセポリス最大の広場。クセルクスⅠ世が着工し、アルタクセネクセスⅠ世が完成させた。現在は柱も崩壊して、70m四方の空間はがらーんとしている。


04
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イラン、イスラム、紀行 (5)

12月04日、曇り、10時30分現在、外気温-1.5度。積雪20cm。

パサルカダエ (Oasargade

2013.10.30。ヤスドからシラーズまでのバス移動、480Kmもあり疲れた。この日はほとんど移動で途中パサルガダエという街でキュロスⅡ世の宮殿、王墓を見ただけだった。

シーラーズ地図

このの地図のようにヤスドからシラーズに向かう途中でサルガダエに寄りシラーズで一泊した、次の日再びヤスド方面に戻り、ペルセポリスを訪れた。

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パサルガダエにあるキュロスⅡ世の墓。

バサルガダエは紀元前546年頃キュロスⅡ世の元で建設が始まった。アケメネス朝の最初の首都である。キュロスⅡ世の死後はダレイオスⅠ世に建設が引き継がれ、ジユーシュに都が移されるまで栄えた。

キュロスⅡ世の墓はピラミット型に石を積み上げた堂々たる物である。この墓は入り口のすぐ正面に有るが。遺跡はかなり広く散らばって居る。

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タフテ、マーダレ、ソレイマーン。

キュロスの墓からやく2Km。小高い丘の上にある大石壇、ソロモノの母の玉座と呼ばれ、宮殿の基壇として作られた。キュロスの死後この基壇の上に建物が作られたが日干し煉瓦だ作られたため、今は残って居ない。

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センターネ、ソレイマーン (ソロモンの牢獄) Zendan-e Soleyman
大石壇へ行く途中にある切石を積み上げて作った建物、破損は激しいが建物は目立つ

諸説色々とあるが一番有力な説は、キュロスの息子、カンピュセスⅡ世の建物であろうと言われて居る。

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キュロスⅡ世の宮殿。

キュロス大王の宮殿は2つあり、謁見の宮殿は修復された一本の柱が残るのみ。下の写真が其れだ。そこから少し離れた住まいの宮殿跡は、30本の白色切石の広場がある。

ここの石にエラム文字、バビロニア文字、古代ペルシァ文字で「私の名前はキュロスⅡ世」と書かれている。

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イランの大地に沈もうとする太陽。古代ペルシァの栄華を思う。


03
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イラン、イスラム、紀行 (4)

12月03日、朝から快晴。午前9時現在外気温-2.4度。積雪23cm。昨夜溶け出していた道路の雪がガチガチに凍てついている。

2013.10.29 今日はエスハハーンからヤスドまで移動。途中キャラバンサライとカナートの跡を見物してヤスドに入った。

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キャラバンサライとは Wikipedeaより

キャラバンサライ(ペルシア語: كاروانسرا kārvānsarā、トルコ語: kervansaray)は、ペルシア語で「隊商宿」の意味。隊商のための取り引きや宿泊施設を指す。バザールやスークに隣接して建てられた。アラビア語では、ハーン(khan)、カイサリーヤ、フンドゥクとも呼ばれた。

一般的には中庭がある二階建ての建築物で、1階は取引所、倉庫、厩、管理人や使用人の住居にあてられ、2階は客人である隊商の商人たちの宿泊施設となっていた。アガと呼ばれる責任者や、荷運びの監督、夜警などの役職が常駐していた。現在では宿泊所としての機能は消え、事務所、倉庫、卸売店舗として用いられている


ヤスドに移動途中、車は幹線から離れ田舎道に入っていった、しばらく走るとキャラバンサライの跡が見えだした。もちろん今は使われていない。農産地帯の畑の中にある、2~300m離れた所に農家の集落があった。

ここの裏手にカナートがあり水が流れていた。

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このサライの建物の側にイスラム教徒の墓地があった。崩れかけている物も有ったが、これは最近埋葬されたのであろう。

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ヤスドの金曜のモスク。 「マスシセェデ、ジャーメ」 (Masjed-e Jame')

サーサーン朝時代のゾロアスター教神殿跡地に、14-15世紀にかけて建てられたヤスドのシンボル的寺院。正面入り口やドームのタイルワークはすばらしく、イスラム建築の傑作の一つに数えられている。


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ゾロアスター教寺院。アーテシュキャデ、(Atesh-kade)
外壁正面上部に有る「翼ふる日輪」で表されたゾロアスター教の善の神、アフラ、マスダの像。

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沈黙の塔。荒野のただ中に立つ風葬の塔。 (Dkhme-ye Zartoshtiyan)

ヤスドに夕方到着して、宿泊場所のホテルに入る前に「沈黙の塔」を訪れた。ヤスドの郊外の50m程度の丘に2ツり塔があり、右が女性用、左側に男性用の塔があった。夕闇が迫る中みんなで女性用の塔まで上がった、私はだけは途中で棄権。

ここはゾロアスター教徒の遺体を葬る風葬の場所として実際に使われていた。1930年にレザーシャーが悪臭が強く、使用を禁止、現在はイスラム教徒もゾロアスター教徒も土葬となっている。

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ゾアスター教神殿をモチーフにしたサファーイエホテル。

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客室に有ったメッカの方角を示すステッカー。天井にあった。
イスラム圏のホテルには部屋のどこかにこの表示がある、テーブルにビニールテープでメッカの方角を示していたり、絨毯にその表示があったりする。


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車のナンパープレートに書かれていたペルシャ語の数字(赤い数字は私が跡から書いた物です、もしかして9となっている箇所が6かもしれません)。

ペルシャ文字とアラビア文字。

私は今回の旅に出かけるまでイランではアラビア文字が使われているものと思って居ました。当然イランで話されているペルシア語とアラビア語とは違っていることは知っていました。言語は違っているが文字は同じ物を使っている物だと思い込んで居たのです。

旅を終えて帰国後、アラビア文字がイランで使われていることに若干の疑問を持ち調べていく内に、アラビア文字とペルシャ文字は違う物だと言うことを知ったのです。

アラビア文字もペルシャ文字もアラム文字を元に作られてはいるが違う文字なのです。アラビア文字のアルファベットは28文字、これに対しペルシァ文字は32文字もあるのです。

現在のイランの地に住んでいた人々が使っていた文字は、エラム人の楔形文字を使っていた時代、その語アラム人のアラム文字、ギリシア人のギリシア文字そして。633年のアラブ人の征服後、アラビア文字を使って居たようです。でもアラビア文字でペルシア語の表記に無理があり色々と変化、改善が有り14世紀頃、現在使われているペルシア文字になったのです、

数字でも4と6が違っています。ちなみに日本語で言うアラビア数字はアラブでもペルシャでも使われていません。なぜアラビア数字というのが後日調べてみたい物だと思って居ます。

世界の数字

インドの数字とアラビア数字は同じですが、インドではデバナガーリーが使われていますので、文章中の数字はデバナガーリーの様ですが、たとえば電話番号などで数字だけ書かれている物はアラビア語の数字と同じ物が書かれています。


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イラン、イスラム、紀行 (3)

11月30日、曇り時々雪、午前8時現在外気温-09度。積雪25cm。

2013.10.28日。イラン滞在3日目。この日は1日中エスハハーン滞在。

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スィ、オ、セー橋 (Si-o-se Pol )

長さ300m、幅14mの橋。アッパースⅠ世の計画的な街造りの際、エスハハーンを南北に貫くチャハール、バーグ通りを繋ぐ橋として1602年に作られた物。

この時期川には水が無かった。雨期に川に水が戻ってくると、1階部はダムになり、人々は2階を通行する。
ペルシャ語で、スィー、オ、セーとは33を意味し、Polは橋の意。橋上部のアーチが33有ることから来ている。

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ヴァーンク教会 (Kelisa-ye Vank)

アルメニア教会。ジョルファー地区にある。1655-64年に建てられた教会。

大聖堂にはマスジェドを思わせるドームがあるがそのてっぺんに小さな十字架が立っていたので、キリスト教会だとわかった。内部は荘厳な雰囲気で、壁には『最後の審判』等の旧約聖書の場面や聖人の画が書かれている。
此処にはアルメニア博物館も併設されている。

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入り口に十字架。

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内部の壁画はすばらしい・

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マスデェデ、ジャーメ (Masjed-e Jame)

金曜の寺院。イランの寺院建築の集大成と言われて居る。
創建は8世紀まで遡るがエスハハーンで最も古いマスジェド。一度焼失して12から14世紀に再建された。

マスジェドとは、イスラム文化センター HPより。

「マスジド」とは、「サジュダする場所」という意味です。「サジュダ」とは、礼拝をする人が床に額をつけて祈ることを意味しますから、「額ずく場所」という意味になります。

 モスクを「額ずく場所」と呼ぶのは、「イスラーム」という言葉が「絶対帰依」を意味することと深く結びついています。

 「イスラーム」のもともとの意味は「絶対帰依すること」です。「帰依」とは、神を信じて、教えに従うことを意味します。そこで、その帰依の心を一番よく表すのが「額ずき神に祈る姿」として、礼拝堂を「額ずく場所」=「マスジド」と呼ぶようになりました。


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マスデェデ、エマーム (Masjed-e Emam)

イスラーム革命以前は「マスジェデ、シャー(王の寺院)」と呼ばれていた。アッパースⅠ世の命を受けて1612年に着工、1638年に完成。

広場に面した正面のエイヴァーンに圧倒される。天井の鍾乳石飾りは見事。中央礼拝堂のドームは二重構造である。

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チェヘル、ソトゥーン庭園博物館。

1647年にアッパースⅡ世によって建てられた宮殿。チェヘル、ソトゥーンとは「四十の柱」と言う意味だが、柱は二十本だ、正面の池に柱の像が映り40本に見えていることから「40本の柱」と言われるようになった。

宮殿内部は博物館になっている。サファヴィー朝の栄華を語る絵画は見事。

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玉座の間の壁一面に書かれた6枚の歴史画はすばらしい。その1枚。

エマーム広場(旧、王の広場)/ Meydan-e Emam 

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ここエマーム広場は『世界の半分』と言われて居る。エスハハーンのなかでも最も美しい場所だ。

首都になる以前、ナグシェ、ジャハーンと呼ばれる広場があったため、今でもそう呼ばれる事がある。広場は正確な長方形で縦510m、横163m。美しい噴水や庭の周りには観光用の馬車が走っている。(ちなみにお上りさんらしく私もこの馬車に乗って楽しんだ)。周囲を取り囲むアーケードには土産物屋や絨毯屋、チャイハーネなどが並ぶ。夜にはエマームのモスクを中心に広場全体がライトアップされる。

私にとって、今度のイラン行きの第一の目的は、このエマーム広場に自分の足で立つことであった。ちなみに第二の目標はペルセポリスを訪れる事だった。

エマーム広場の画像は本やネットで見ていたが、ここに来て自分の足で立ってみると、来るまでの思いが、勘違いであったことが判った。写真でみて思っていたのは此処が精神的、イスムラの精神に出会う事が出来ると場所と思って居たのである。たとえば、日本で言えば、伊勢神社の境内の玉砂利の道を歩くときに感ずる、精神的な感動を求めていたのだが、ここに来てみると現世的、世俗的、レジャーセンター的、ショッピングモール的な所である事が判った。

私が勝手に誤解していたのだが、少し残念だった。



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アリー、カーブ宮殿のテラスにたたずむ。

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アリーカーブ宮殿の6階部分にあった、天井。

エマーム広場の西側にある宮殿で、大きなテラスが目印である。正面が2階建てで、後ろが7階建てである。テラス部分は現在修復工事中であった。後ろの建物の6階の音楽室の天井は楽器のかたちに刳り抜かれている。

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この広場の周りの道を観光用の馬車が走っている。

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午後6時頃、夕闇が訪れてきた。広場のライトが点灯されだし、幻想的な広場に変身し出した。

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マスジェデ、シェイフ、ロトフ、オッラー (Msjed-e Sheykh Lotf-ol-lan)の屋根が輝いて居る。

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エマーム広場の東側。



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